会員公開講座 滝沢直己さん「ファッションって何だろう」

2022年11月15日

6月4日、ファッションデザイナーで、NAOKI TAKIZAWA DESIGN INC. の代表を務めておられる滝沢直己さんをお招きし、本年度第3回目の公開講座が開催されました。滝沢さんは、イッセイミヤケのクリエイティブディレクターを経て2007年に独立されたのち、天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下)や秋篠宮皇嗣殿下の衣装デザイン、ユニクロのデザインディレクターなどを歴任してこられました。
今回の講座では、これまで滝沢さんが取り組んでこられたプロジェクトの内容やそこで得られたご経験についてご紹介頂いたのち、「ファッション」とは何か?という本講座テーマに対する滝沢さんの見方をファッション史に沿ってお伺いしました。


ISSEY MIYAKE時代のファッションデザイン活動
滝沢さんのファッションデザイナーとしてのキャリアは、当時アルバイトをしていた三宅デザイン事務所に1982年に入社するところから始まります。当初、イッセイミヤケ傘下のブランドであるプランテーションのデザインを担当しつつ経験を積み、1993年からはデザインの第一線を退いた三宅一生さんの跡を継いでコレクションのデザインを担当しました。

滝沢さんは、特に、多様なアーティストとのコラボレーションに力を入れていたのだそうです。例えば、2000 年春夏のメンズコレクションでは、アーティストの村上隆さんと作品を発表しました。当時は、サブカルチャーが注目され始めていました。アートシーンだけでなく、日本の伝統文化など多様な文化的文脈を拾い上げるなかで、“2次元のデザイン”に日本らしさを見出しつつデザインを進めました。また、日本の伝統的美意識を、“見た目はシンプルで裏地に華やかなプリントがある”デザインによって表現しました。

コラボレーションを通して、ファッションデザイナーとして活動の幅はどんどん広がります。フランクフルトバレエ団のコスチュームを芸術監督ウィリアム・フォーサイスさんと協力してデザインしたり、英雑誌アナザーマガジンが企画したドレスアートプロジェクトの一環で美術家の奈良美智さんと共にドレス「山の上に月」を制作したりしました。また、フランスでは、建築家ジャン・ヌーベルさんの提案に基づきケ・ブランリー美術館のカーテンを制作し、カルティエ現代美術財団の展覧会「ヤノマミ:スピリット・オブ・ザ・フォレスト」展に参加するなど、美術展示の場でも活動されてきました。

独立後の躍進
「イッセイミヤケからの独立後は、文字通りゼロスタートで色々な困難に直面した」とおっしゃる滝沢さんに、転機となる仕事が舞い込んできたのは、2010年のことでした。ファッションデザイナーの植田いつ子さんからのお誘いがあり、現・上皇皇后陛下の服を担当することになったのです。それをきっかけに、現・上皇陛下や秋篠宮皇嗣殿下のスーツを仕立てる機会にも恵まれます。「このお仕事で、日本の伝統的な素材や技術など多くのことを学ぶことができたし、日本の象徴となる方の一点ものの服を作るという得難い経験をすることができた」のだそうです。加えて、同年、ユニクロ代表取締役会長兼社長の柳井正さんとの出会いをきっかけにユニクロのデザインに携わりはじめます。“日本の素材と工夫力との組み合わせ”を大切にする“究極の服”の開発を進めたイノベーションプロジェクト(2011)を元に、錦織圭さんのウェアデザイン(2012)に取り組みました。ユニクロの仕事では、ニューヨーク近代美術館のセキュリティチームのユニフォームデザインや、“自分なりの着こなし”をテーマに活動されているデザイナーのネス・ト・ラ・フレサンジュさんとのコラボレーション(2012)など、ご自身の活動を広げる機会を得られました。

さらに、知識や経験を活かしつつご自身の事務所を強固にしていくために、滝沢さんは、ユニフォーム制作に注目しました。ヤンマーがこれからの100年に向けた新たな成長戦略として開始した「プレミアムブランドプロジェクト」(2013)では、最先端の素材や技術を用いた農業ウェアとマリンウェアをデザインしました。JR東日本が「TRAIN SUITE 四季島」の運行を開始した際には、東北の伝統的な繊維である「からむし織の色」など沿線地域の素材・手仕事・色合いを取り入れつつ、ストーリー性を盛り込んだクルーユニフォームを制作(2016)しました。

他にも意欲的なテーマの仕事に挑戦されています。東京大学総合研究博物館とのコラボレーションでは、展示資料である100年前の蝶の標本や葉脈の顕微鏡写真からテキスタイルを作成して服をデザインしたほか(MODE & SCIENE, Micropraphia, 2009)、数式を立体化した形態や(ANTHROPOMETRIA, 2010)貝の構造から(eCornuCopia, 2011)着想を得たデザインにも取り組みました。また、ご自身のデザイン事務所が入居している代官山ヒルサイドテラスに構えた「NAOKI TAKIZAWA FITTING ROOM」(2018~)では、最高品質の縫製・素材・カットを揃えたオーダー対応の服を販売しています。同店は、ユニクロや皇室で得られた経験を活かした、滝沢さんならではの新しい自由な服づくりを実現する場となっています。

前近代的衣装を構成する要素
ファッションをめぐる多様な仕事に携わってこられた滝沢さんは、“「ファッション」ってなんだろう”というテーマにどのようにお答えになるのでしょうか。滝沢さんが会場で示されたのは、色々な国・地域の民族衣装です。「これらは、ファッションの源流。①風土・気候、②宗教と縁起、③階級、の3つに大きな影響を受けている」と説明を加えます。

これら3要素をビジュアル化する被覆のわかりやすい要素として、滝沢さんは、(1)色、(2)グラフィックデザイン、(3)装飾品、の3点を取り上げました。例えば、古代中国(唐)・日本では地位を異なる色で表していましたし、日本の江戸時代には「四十八茶百鼠」という庶民がまとうことを許された色見本がありました。また、布地のデザインとして、フランスやケニアでは自然・農産物など身の回りのものが、日本では縁起がいいモチーフが利用されてきました。そして、アメリカ原住民は神聖な鷹の羽で作った冠で自らの地位を表し、タイ・モア族やケニア・マサイ族は貨幣やその代替物を装飾品として身につける伝統があります。

以上に示された“ファッションの源流”は、スタッズ等の飾りやテキスタイルのモチーフといった形で、現代のファッションにも継承されてきました。

被服にもたらされた大きな変化
人類の被服文化において大きな転換点となったのは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命です。機械化による衣類の大量生産や生産の高速化が実現され、ファッション産業が拡大すると同時に人々の着こなしにも変化が起きました。例えば、工業化によって生まれたファッションアイテムとして、女性用のパンティストッキングがあります。とても薄く伸縮性のあるナイロンで作られており、どんな体型でも均一の皮膚感をまとうことができ、脚を隠すと同時に見せることができます。このアイテムによって、ミニスカートを履く文化が生まれました。日本では、当初は「裸みたいで恥ずかしい」と人気のなかったストッキングですが、モデルのツイッギー来日をきっかけに起きたミニスカートブームに後押しされ、売れ行きが向上します。このように、ファッションの流れによって伝統的な価値観や嗜みが変化するという現象も見られるようになりました。

このような価値観の変化を、オートクチュールで活躍したデザイナーが牽引した事例もあります。例えば、ココ・シャネルは、ニットを利用した軽く着心地の良い服やパンツをデザインし、被服デザインによって女性解放を後押ししました。また、イブ・サンローランは、女性ファッションに従来の男性スタイルを取り入れたり、モードと非西洋の文化を掛け合わたりするといった多様な表現によって、“人がファッションを選ぶ”という価値観を作り上げました。こうしてファッション業界に吹き込まれた新しい風は、“全く新しい考え方で服を作る”という姿勢として、1980年代のファッションデザイナーたちに引き継がれていきます。

これからの「ファッション」とは
現代では、ストリートで起こる現象がファッション業界を牽引するようになってきました。スポーツ選手・歌手・ダンサーといった人々の着こなしが流行を生み出し、古着をリメイクして生み出された多様なスタイルが注目を浴びています。ルイ・ヴィトンで初めて起用された黒人デザイナーのヴァージル・アブローさんの作風に代表されるように、ストリート感のあるデザインや、Tシャツやスウェットなどのファッションアイテムが、ハイブランドにも多大な影響を与えています。「現代では、地球上全ての場所で同じような服が着られている。自分らしいものを着るのが一番オシャレというのが今の価値観」だと、滝沢さんはお考えです。

最後に、「これからどのような服を作っていくべきだろうか」と滝沢さんは問題提起をしました。今後は、環境・情報・テクノロジー・生産・物流といったキーワードをヒントにしつつ、想像力を働かせて個性を出すことが不可欠になっていきます。「子どもたちには、自分の興味で色々な新しいデザインを生み出していってほしい」という希望に溢れた言葉で、本公演は締めくくられました。

岩永 薫