塾生限定講座「戦後モダニズムの建築から学ぶ|丹下健三の作品を語る」

2013年11月26日

11月8日、恵比寿スタジオにて、建築家の神谷宏治先生を講師にお迎えし、「丹下健三の作品を語る」と題したレクチャーが行われました。

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神谷先生は東京大学の丹下研究室のご出身で、1961年から1971年にかけて初期の丹下事務所(都市・建築設計研究所/URTEC)の代表取締役として、建築の設計に携わっていました。

丹下健三氏 撮影:神谷宏治

初めに1958年5月の香川県庁舎竣工時の写真とともに、丹下氏についての紹介がありました。丹下健三氏は1913年9月4日大阪生まれ、父親が銀行員だったため、幼い頃は各地を移住していたそうです。その後、7歳の時に愛媛県今治市に住み始めました。1930年に広島高校に進学すると、哲学・文学・芸術論に興味を持ち、雑誌でのル・コルビュジエとの出会いが建築家を志すきっかけとなりました。2浪を経て、1935年に東京大学建築科に入学し、1938年には辰野賞を受賞するほどの実力があったそうです。卒業後は前川國男建築事務所に入所し、1941年には東京大学大学院に進学します。都市設計をメインテーマに学ぶと同時に、戦時中にもかかわらず、コンペで連戦連勝していきます。1941年に東大の助教授に就任し、丹下研究室が誕生しました。神谷先生は1952年から研究室に在籍されていたそうです。

広島平和記念資料館

最初の作品として紹介された広島平和記念資料館・東館と本館、慰霊碑の設計は、1949年のコンペ開始から1952年までかかり、広島の復興についても計画したと言います。アーチ状の慰霊碑には巧みな記念碑性が込められており、丹下氏の広島に対する思いが伝わる作品になりました。

東京都庁

1957年完成の旧都庁舎はルーバーが特徴となっており、鉄とガラスを用いた近代的なデザインと開放的なピロティによって開かれた空間は、コルビジュエの影響が感じられます。

愛媛県民館

1953年完成の愛媛県民館は、坪井義勝先生が構造を担当された斬新なデザインの建築で、初の建築学会賞を受賞した力作でした。しかし音響に問題があり、「多目的は無目的」といった言葉が生まれたほどです。専用の体育館や音楽ホールができた後には、残念ながら現存はしていません。

津田塾

今も現存する津田塾大学図書館は、1954年に完成しました。耐震補強が行われたものの、木々の中に囲まれた開放的な空間は、聴講者の中からも「行ってみたい」と声があがるほど魅力的でした。

香川県庁舎

本年、丹下生誕100周年でも注目されている香川県庁舎は、今から55年前の1958年に完成しました。その設計に関しては、丹下氏自身が3日間自宅に籠って図面を仕上げたと言います。またそのモチーフとしては、京都・清水寺の舞台下の木組みがありました。このような伝統や文化を取り込んでいることによって、斬新でありつつも、過去・現在・未来をつなぐ存在感を表す設計になりました。

代々木体育館

国立代々木競技場は、丹下氏の代表作として知名度も高いですが、神谷先生はスタディの段階から参加されていたそうです。設計を進める中で、いくつもの案から神谷先生のアイデアが採用され、現在のデザインに至ったと言います。五輪開会式直前の1964年9月に竣工しました。当時、丹下事務所のスタッフは十数名しかおらず、これには伊東塾長も驚かれていました。

今治市公会堂

今治市役所・市民会館・公会堂は、今年7月の夏期合宿の際に直接拝見しました。複数の建物によって形成される広場から「都市のコア」を考え、計画されました。公会堂の折板構造は大空間を取るために考案されたもので、当時、多くの建築家が取り組んでいたテーマだったようです。今見ても古さを感じさせない力強いデザインは、長年の努力によって出来上がったものであることを感じます。

大阪万博撮影:神谷宏治

1970年に開催された大阪万博の大屋根は、岡本太郎氏の太陽の塔が突き抜けていることが印象的です。空中都市を計画し、立体トラスとボールジョイントによってつくられた構造は、後のフランスのポンピドゥーセンターの設計の際にも参考にされたとのこと。丹下氏の作品は海を越えて学ばれ、現代に繋がる建築の礎になっています。

神谷先生ご自身は、丹下事務所を退職された後もコーポラティブハウスの普及に積極的に取り組まれました。コーポラティブハウスとは、入居希望者によって建築行為全体が行われるもので、丹下氏のDNAを引き継ぎつつも、新たな建築の在り方を考えられていました。丹下氏は1980年代にコーポラティブハウジングに強い関心を持っていたそうです。

最後に、神谷先生の建築についての考えをお話しいただきました。その中には、「世界が共同して持続可能な政策を考えること、人類だけの成長優先主義だけでなく発展すること」が挙げられていました。また、構造改革として「文明の変化に応じて都市、建築の構造を変革するのは都市計画家、建築家の責任」であり、記念碑性として「その時代の人々の共感を得て時代を代表するシンボル性を表現することは都市計画家、建築家の使命」であるというお言葉があり、この2つの責任と使命が結晶化することで良い社会になるということを強調されていました。

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今回の講座を通して、戦後から現在の都市の基盤を考えたともいえる丹下健三という人間を改めて知ることができ、大変勉強になりました。聴講者からの「丹下健三はどのような人間であったか」という質問に対し、神谷先生は「一言では言い表せないが、わがままな人であった」と話されていました。しかし、丹下健三氏の「わがまま」は、神谷先生をはじめとする周りの人の理解、協力があって成り立つものだと神谷先生のお人柄から感じました。貴重なお話を聞かせてくださった神谷先生に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 塾生 児玉嵩史