土曜建築塾 中沢新一さん講演初回

2011年07月09日

先日神谷町スタジオで、土曜講座特別講座が開かれ、思想家・人類学者である中沢新一さんが講義をしてくださいました。
中沢新一さんは「チベットのモーツァルト」でデビューされ、その後も沢山の著書をお書きになっています。特に宗教に関しての研究者として一般に知られており、仏教思想などを独特な切り口で紹介なさっています。

今回の講座は「建築の大転換」と題して行われました。様々な話が、いろんな派生の仕方をしながら展開されたので、順序立てて内容を記していくのがとても難しい。さらには、そこはさすがに宗教学者だけあって、空想的な物語や神話を自らの思想と照らし合わせながら話してくださったので、ますます本質がつかみにくい。
ですので、私が個人的に関心があった箇所をかいつまんで話をさせていただきます。

まずキアスムという思想の話から始めます。これは中沢さんの思想や、物事の見方を形成する非常に重要な要素です。キアスムとはそもそもメルロ=ポンティの生み出した言葉です。現象学で知られるメルロ=ポンティは精神と肉体、主体と客観という、デカルト以降の哲学における二元論を乗り越えようとした人です。そもそも現象学という学問そのものが、そういった要素を持ちます。キアスムとはそういった思想の中で生まれた用語であり、「交叉、絡み合い」と訳されます。説明が非常に難しい概念なのですが、要するに入れ替わりというか、混ざり合いというか、そういったものだと思ってもらえればいいのではないかと。主観と客観の融合した状態と考えてもいいのかもしれません。
中沢さんによると、宗教というのはキアスム的であり、例えば共産主義〜資本主義はその対極にあります。共産主義〜資本主義というのは基本的に市場経済であり、品物に見合った対価が払われることが絶対とされます。この場合の対価はほとんどの場合が金銭ですが、別に物々交換でもかまいません。人々の需要と供給から、その品物の価値がランク付けされ、同じランクにある別のものとの関係で経済が動きます。このような市場経済において、贈与という考え方は非常に矛盾したものです。一方的にものが動くのですから。これは中沢さんによればキアスムです。ものを渡す側と渡される側がある意味で混同するからです。贈与という行為は宗教に多く見られます。もちろん神に対する贈与も、人と人との贈与も、厳密には全くの一方向ではないのですが、少なくとも共産主義〜資本主義原理とは全く異なります。つまりこの贈与に見られる個人と個人の関係性がキアスムになるわけです。

さて話はやっと建築に移ります。中沢さんは建築を、線形と非線形の二つに分類します。線形建築とは機能主義時代のコルビジェを頂点とするモダニズム建築のことです。それは別に四角い建築という短絡的な意味ではないと私は理解しています。ザハの建築も、フランクOゲイリィの建築も、おそらく線形建築に分類されるのではないでしょうか。私の考えでは建築そのものの形よりも、その背後に潜む原理が線形、非線形を区別しています。ザハの建築もゲイリィの建築も共産主義〜資本主義社会によって形成されたモダニズム建築に変わりはないのです。
しかし現代では建築家も少し敏感になり、線形だけではなく、非線形の要素を内包した建築を生み出そうと苦心している人たちが多くいます。しかし、その結果彼らのたどり着く答えとは、ガラスで内と外の境界を開いたり、屋上緑化をしたり、ファサードに竹を使ってみたり、植物の形を参考にしたような建物を作ってみたり等等。中沢さん曰く本質的な取り組みをしている人はほとんどいません。それはつまりその解決の糸口が全て表装だけの試行錯誤で完結してしまっている、ということなのだと私は解釈しました。
中沢さんはこれまでのモダニズムを「大地の上に線形を添えたもの」と定義します。そして新しい建築として、概念的ではありますが、大地の中にある非線形のものが地表に出て、そのまま自己変異するものをイメージされています。それがどのようなものかはわからないそうですが。
では何が非線形かと問われると、そこで中沢さんは宗教建築を取り上げます。話の中で例としてあげられたのは伊勢神宮。中沢さんは、伊勢神宮は物語の蓄積によって出来上がっていると言います。それはスサノオノミコトの逸話などのことです。一つの建築が、資本の単純な原理によって出来上がっているのではなく、ある物語をなぞらえながらその形態を生成させている。その最も特徴的な要素として、千木の存在が取り上げられます。千木とは屋根の両端の垂木をそのまま延ばして交叉させたものです。もとは構造を補助する要素として用いられていたそうです。その天へと伸び上がるような形態に、地に横たわるモダニズムとは異なる、非線形の要素を中沢さんは見いだしたのではないでしょうか。

そこでまた話は新しい時代の非線形建築へと移ります。ではいったいどうすればそれが提案できるのか。さすがに、全ての建築を宗教ベースに計画するわけにもいきませんし、伊勢神宮のような形態にするわけにもいかない。結局最後までその答えははっきりとはしませんでした。次回の講演で、話がそこまで発展すると面白くなると思います。
中沢さんは最後に建築家というのはそんなに重要な職業じゃないと言います。磯崎新の本を読んでいると、まるで建築家が世界の一大事を背負っているかのように感じるが、そんなことを考えても非線形の建築にはたどり着かない。例えば伊勢神宮を建てた、当時の棟梁は世界における建築の役割などという小難しいことは考えていなかった。それでも彼らは非線形建築を作ることに成功していたのだから、建築家は小難しく考える必要はないと。
ただ私はハンナ・アレントが世界を構築する職業である仕事に建築が含まれていると信じていますから、建築家の担うべき仕事は本来あまりにも重大すぎて多くの建築家自身すら気がついていないほど、重要だと思っているのですが。

ここからは私の考えです。

吉本隆明が著書の中で面白いことを言っています。彼は宗教を「自然宗教」と「創唱宗教=理念宗教」に区分します。自然宗教とは文字通り自然発生的に生成した宗教。特定の個人がいるわけではなく、民族的な行事や集団意識の中で生まれたものです。「創唱宗教」とは明確な神の存在があり、その神の教えを誰かが授かりそれを伝達することによって広まるものです。それは自然宗教とは異なり明確な理念を持ちます。社会をこうしたいという理念です。従って基本的に、社会と平行に創唱宗教は生成されます。創唱宗教が良くする対象は人間社会ですので当然社会の生成とともにあります。
すると「創唱宗教」社会には何がおこるか。社会というのはいつの時代も刻一刻と変化し続けます。しかし創唱宗教には強い理念があるため、社会が変化してもその理念だけは残り続けます。したがって社会の中から生まれた宗教理念が、いつのまにか社会が変わっても、形をそのままに残り続けてしまうのです。それはキリスト教やイスラム教社会に強く見られます。
私はこれは結構建築においても重要なことではないかと思います。社会の変化とは切り離されて存在する理念。中沢さんの話と絡めて考えると、私たちが目指すべき非線形というのは、形のことでも空想の物語のことでもなく、その理念のことなのかもしれません。この場合の理念というのは宗教的なことでなくても良いのです。様々な人々が話し合い、このような社会を目指そうというものです。そのような社会の変化が要請するものに影響されない理念。例えばそれは中沢さんが言う第8次エネルギーをどのように考えるか、それに対する個々人の思想が生み出す新都市の形態であるかもしれません。それも十分立派な理念と呼べるでしょう。
だから私はこの線形、非線形の話を形とはいっさい関係ない概念として話を聞いていました。中沢さんが用いた抽象的な用語を現実的なものに置き換えたときに見えてくるもの。おそらく中沢さんがこれほどまでに建築家に対して語っているのは、建築家が現実的な非線形要素を彼の言葉から引き出すことを期待していたからではないでしょうか。