会員公開講座 伊東豊雄「建築って何だろう」

2021年07月26日

5月29日、伊東建築塾恵比寿スタジオにて、本年度第1回目の公開講座が開催されました。今年度の公開講座を貫くキーワードは「何だろう」。各回様々な分野から講師を迎え、子ども(小学生高学年程度)でも理解できる明快な言葉で各分野の本質について語っていただこうと企画しております。そのような趣旨を踏まえ、今年度の公開講座では、子ども建築塾メンバーにも参加していただきます。2021年度の公開講座の場が、子どもから大人まで多様な人々を交えた議論の機会となることにスタッフ一同期待を寄せております。

第1回目となる今回は「『建築』って何だろう」をテーマに設定しました。講座の前半では「現代建築とは何か?現代建築の何が課題のなのか?」という点について、本塾の伊東塾長の考えを会場の皆さんと共有しました。そして、講座の後半では、会場の皆さんも交えつつ、「建築と自然との繋がり」「建築と人間との関係性」などに関する活発な議論が行われました。

近代主義建築の登場

伊東塾長は、私たちに身近な”現代建築”について改めて考えてみるために、まず、木造住宅・高層ビル・公共建築などが雑多に集まる東京高円寺の航空写真を示しました。そして、「東京は量産可能な”近代建築”に覆われつつある。その一方で、”近代主義建築”が浸透しているとはいえない」と指摘します。

伊東塾長は、“近代主義建築”とその理論を常に意識しつつ、建築教育を受け、建築家として活動してきた」のだそう。近代主義建築は、20世紀初めに、暗い不衛生な都市社会を変えることを目的に興った前衛芸術運動に起点を持ちます。そこに込められた思想を体現した人物として著名なル・コルビュジエ(1887-1965)は、当時は不衛生だった大都市パリに対して、建物の高層化・空地の確保・歩車分離による光と緑溢れた衛生的な空間を目指す改革案を発表します。合わせて、主婦の活躍、機能的な生活運営、集合住宅における食糧の分配、各住戸の平等な自然へのアクセスなど、住人の生活の質を改善する術を徹底的に考えていました。

近代主義建築の思想をめぐる”建築家”の葛藤

「居住者のより良い生活を実現するために」という思いで生まれた「近代主義建築」の思想には、皮肉なことに、”居住者/市井の人々”から、理解され受け入れられにくかったという側面もありました。コルビュジエの活躍と同時代のメキシコでは、建築家ファン・オゴールマン(1905-1982)が、コルビジェの「近代建築の5原則」を用いて、メキシコ近代芸術の巨匠夫婦のために《フリーダ・カーロとディエゴ・リベラのアトリエ兼住居》(1931)を設計します。オゴールマンにも、「近代主義建築によって社会を変える」という熱意がありましたが、現地の人々に近代主義建築はなかなか受け入れられず、装飾溢れる土着的デザインへ設計スタイルを変化させたのちに、自ら非業の死を遂げてしまいます。

伊東塾長自身も、このような近代主義建築の思想をめぐる葛藤を経験してきました。塾長は、1964年の夏に施工現場を見た《国立代々木競技場》(設計=丹下健三, 1964)、モントリオール万国博覧会で見た《モントリオール・バイオスフェア》(設計=バックミンスター・フラー, 1967年)に、「未来都市とはこういうものかと深い感銘を受け、自身の建築を作るドライブとなった」と語ります。その一方で、大阪万博(1970)では、来場者が未来的な構造体には目もくれず、土着的なものに惹きつけられる様を目の当たりにします。人々は、土着的な《太陽の塔》(制作=岡本太郎, 1970)に歓喜する一方で、鉄骨で組まれた《お祭り広場》(設計=丹下健三, 1970)やコンピュータ制御を備えた2体のロボット(設計=磯崎新)にはあまり興味を示さなかったわけです。

”建築家”と”居住者/市井の人々”との間での近代主義建築への認識の違いや、その結果引き起こされた葛藤は、何に起因していたでしょうか。伊東塾長は、次の4点を挙げ「近代主義建築は都市の建築である」という観点から説明を加えました。

①地方から自由を求めて大都会に集まる個人の集団はコミュニティを形成できない

②土着の泥臭さを受け入れられない

③経済優先の高層化により、自然から遠ざかり均質空間となる

④均質空間は情報によって違いを強調するしかない

近代主義建築の思想も重要、でも”土地に根付く感覚”も必要

さらに、近代主義建築に反発する”居住者/市井の人々”の気持ちを感じた出来事として、伊東塾長は、東日本大震災後の支援の際に浴びせられた「お前ら何しにきたんだ!俺たちの街は俺たちで作るから」という住民の方の言葉を取り上げました。

その一方で、当時の被災地には「近代建築の1番貧しい姿としての大量生産的な仮設住宅」が溢れていました。伊東塾長は、「住民の方々の役に立ちたい、少しでも生活の質をあげるお手伝いがしたい」という思いから、人々が集える心の拠り所として、「みんなの家」のプロジェクトをスタートさせます。2016年の熊本地震の際にも活用された「みんなの家」の設計手法では、立地環境や、”居住者/市井の人々”との対話が重視されます。その結果、”土地に根付く感覚”・”土着性”が大切にされた、その土地の住民の居場所が出来上がるのです。

建築と自然との関係性を再考する

被災地の住民が「『みんなの家』の縁側に集まる温かさ、木の香りをとても喜んでくれている」一方、東京都渋谷では、「アーバンコア」という考え方のもと、高層化と歩車分離の再開発が進んでいます。伊東塾長は、「果たしてこの方法で本当にコルビュジエが提唱した”便利さ”は獲得されうるのか」と問題提起をします。そして、自然との関係性や人間らしさを回復しうる現代建築のあり方について考えを重ねた結果、設計の際には次の3点を重要視していると説明しました。

①建築の内部に自然を感じさせる場所をつくる

②機能に特化した地方都市の公共建築を地域のコミュニティを復活させる「みんなの家」に替える

③空き家や古い建築をリノベーションして新たなコミュニティ再生の場所とする

①の実践例として、「伊東豊雄 建築/新しいリアル」展(2006)ではうねる床、《多摩美術大学附属図書館》(2007)では森林を彷彿とさせるアーチ空間とリラックスできる家具の配置、《台中国歌歌劇院》(2016)では街中をぶらぶら歩いているように感じさせるプランニング、《みんなの森 ぎふメディアコスモス》(2015)では、自然採光と換気を可能とする11個のグローブによって、人々が自分の感性や気持ちの赴くままに行動できる空間が目指されています。

②の実践例として、《新水戸市民会館》(2016-)《今治市伊東豊雄ミュージアム》(2011)《岩田健 母と子のミュージアム》(2011)では、地域の方々に開いたイベントを行うだけでなく、そこで自然発生的に交流が生まれるような待合空間作りが目指されています。また、《せんだいメディアテーク》(2008)《みんなの森 ぎふメディアコスモス》(2015)《座・高円寺》(2008)は住民の方々が自主的に行う交流活動の場・”第二の自宅”として愛される公共建築になりました。

③の実践例として、大三島では、住民の方々を交えて既存建築をリノベーションすることで、《大三島みんなの家》(2016)《大三島憩の家》(2018)《みんなのワイナリー醸造所》(2019)を実現し、大三島の人流を促すハブとして運営していくプロジェクトが進行中です。

これらの実践例を踏まえた現在において、伊東塾長は今後どのような建築を実現させようと考えているのでしょうか。塾長は「私にとって現代建築に求められるのはしなやかさである」と言います。「中と外ができるだけ隔てられていない。自然体の人々の動きを支えるような、ナチュラルな建築を作っていきたい」という今後の抱負を、最後に共有していただきました。

岩永 薫