第3回公開講座 岡根谷実里さん「食って何だろう」
7月27日、2024年度第3回会員公開講座が開催され、世界の台所探検家の岡根谷実里さんをお迎えしました。明晰な口調と、明るく溌剌とした雰囲気が印象的な岡根谷さんは、世界各地の家庭を訪れ、一緒に料理をしながら、その国の文化や歴史、社会背景を伝える活動をしておられます。現在までに30以上の国と地域を訪れ、170を超える台所で料理を共にされてきたとのこと。日本では小中学校での出張授業や講演活動の他、著書『世界の食卓から社会が見える』(大和書房、2023年)など文章執筆、テレビやラジオへの出演など、幅広い活動を展開されています。
本講座では、フィンランド・ペルー・インドの台所から垣間見える各国の文化と、世界を知る窓としての「食」の可能性について、お話しいただきました。
台所探検家としての歩み
「台所探検家という職業の方、いらっしゃいますか?」講座は、この問いかけから始まりました。メジャーな職業ではないと前置きされながら、ご自身も自分以外には知らないとおっしゃいます。台所や料理がずっとお好きだったのかと思いきや、岡根谷さんは当初から料理や食に関わる道を志していたわけではありませんでした。大学では土木工学を専攻され、インフラ整備を通じて人々の暮らしを便利にすることで、幸せに貢献したいと考えておられたそうです。その思いから、大学院時代にケニアでの大豆加工工場立ち上げプロジェクトにインターンとして参加されることになりました。
ところが現地での経験が、岡根谷さんの人生を大きく変えることとなります。きっかけは、滞在していた村に大規模な道路建設計画が持ち上がったこと。確かに物流が改善され、農作物の出荷が容易になることで現金収入も増えるという利点はありました。しかし、学校や市場の立ち退き問題が浮上し、短期間での移転を強いられる住民たちの悲しみや怒りを目の当たりにしたといいます。
そんな中で岡根谷さんが気づかれたのは、「夕食の時間」に、みんなが笑顔になっていたこと。特別な料理ではなく、とうもろこしの粉を練った素朴な練り粥を囲む団らんの中に、確かな幸せを見出されたのです。「道路は誰もが作れるわけではなく、時に犠牲を生んでしまう。でも料理は誰もが自分の手で生み出すことができて、地球上の人々を笑顔にすることができる」。この気づきが、世界の台所を訪ね歩く現在の活動につながっていったとのことです。
「食」を通して国を知る:①フィンランド「従わない台所」
国土の4分の1が北極圏に位置するフィンランド。2-3週間ほどの短い夏には、人々はアウトドアを楽しみ、庭でのテラスランチに精を出します。そうした食事形式に加えて岡根谷さんの目を引いたのは、「従わない」料理のあり方でした。それを象徴する一つのエピソードとして、ハコネンさん一家での「レットゥ(lettu)」作りの様子を紹介されました。
レットゥはフィンランドのクレープです。「レットゥは絶対鉄板がいいから外でやろう」雨が降りだしそうな天候にも関わらず、お母さんがそう提案したのをきっかけにお父さんがガレージにこしらえたのは、一輪車に端材を組み合わせ、木の板を渡して鉄板を置くという即席の調理台です。その上に、計量もせずバサッバサッと粉を混ぜ合わせて作った生地を流します。さすが鉄板で焼かれるだけあって、1枚1枚出来上がっていくレットゥはとても美味しそう。
さらに興味深かったのは、その後の展開だったといいます。小学1年生の娘リビアが「私も私のレットゥを作る」と言い出し、自分独自の生地を作り始めたのです。自分が思うように材料をまぜあわせ、できあがった厚みのある独特な食感のレットゥを、家族は否定することなく受け入れていました。
このような自由な創造性を支えているのは、フィンランドの教育理念だと岡根谷さんは指摘されます。フィンランドでは、「子どもの権利が第一」という原則のもと、「あなたはどうしたいの?」という問いかけを常に大切にする教育が行われています。15人から25人の少人数クラスで一人一人に応じたサポートを重視し、各自が学習目的を見つけることを重んじます。そして義務教育の9年間、テストによる一方的な定量評価は行われません。料理の面でも、家庭のレシピへのこだわりはなく、パッケージの裏に書かれた基本レシピを参考に各自が好みの調整を加えていくのだとか。その表れとして、書店にフィンランド料理のレシピ本がほとんど並んでいないことも興味深い特徴です。料理に「正解」を求めないこの姿勢は、誰もが自由に台所に立てる開かれた環境を生み出すことにも繋がっているのではないかと語ります。実際、朝食ではパンと野菜、ハム、チーズを並べて各自が好きに組み合わせ、昼食では焼き野菜を自由に取り分けていたそうです。このようなシンプルな調理法によって、料理する人と食べる人という境界が曖昧になり、自然と全員が料理に参画できる環境が生まれているのです。
「こうしたフィンランドの台所と料理から、子ども中心教育と、あなたはどうしたいのというのが常に問われる、そんな社会の様子が垣間見えた」、と岡根谷さんは強調されました。
「食」を通して国を知る:②ペルー「イモに驚愕する台所」
南半球に位置し、世界最長のアンデス山脈を有するペルー。岡根谷さんが訪れたのは、標高4,000メートル、富士山の頂上よりも高い場所にある村でした。そこで目にしたのは、毎日毎食、飽きることなく食べ続けられるジャガイモ文化の深さだったといいます。
ジャガイモ収穫の現場で、岡根谷さんはが見たのは、一つ一つの形や色が異なる多様なジャガイモの姿です。なんと4,000種類以上もの品種が現地にはあるのだとか。これは単なる偶然ではなく、ペルーがジャガイモの原産地であることを示す証しです。種類だけでなく、その食べ方も多様です。例えば、乾季に限って実践される「ワティア(Guatia)」と呼ばれる調理法では、枯草混じりの土に火をつけ、そこに芋を埋めることで焼き芋を作ります。また、極寒の夜と温暖な昼の寒暖差を利用した保存食「チューニョ(Chuño)」も特徴的です。凍結と解凍を繰り返すことで水分を抜き、フリーズドライ状態にすることで、5年から10年という長期保存を可能にしています。
このような知恵の背景には、標高4,000メートルという過酷な環境に適応してきた食文化があります。まず、多くの作物栽培が困難である極端な高地で現地の人たちが安定して育てられるのが、ジャガイモ。さらに、高度による気圧低下が水の沸点を88度まで下げてしまうためにお米を炊くと芯が残ってしまう一方、ジャガイモの澱粉は65度程度で調理が可能で高知でもおいしく食べられます。また、涼しい気候を活かした保存も容易で、通常のジャガイモでも次の収穫期まで保存が可能だといいます。
「原産地においては、食材を見る解像度が高い」と岡根谷さんは指摘されます。私たちにとって「ただの芋」でしかないものが、現地の人々の目には「粉っぽい芋」「スープに向く芋」「保存のきく芋」など、極めて細かな違いとして認識されているのです。そして、高地という特殊な環境に見事に適応した食文化の姿は、伝統の知恵と、調理の合理性が見事に結びついた例として、とても興味深いものだったそうです。
「食」を通して国を知る:③インド
最後にご紹介いただいたのは、スパイスを使った料理で知られるインドです。インドの台所で岡根谷さんが印象的だったのは、同じ形の容器が規則正しく並び、伝統的な丸トレーが整然と収納された姿でした。その事例として、ジャイナ教を信仰する家庭の台所をご紹介いただきました。
この整然とした台所の背後には、インドの食文化が深く関係しています。食事の型が決まっていることで、必要な食器が自ずと限定されていくのです。インドでは手で食べることが基本のため、フォークやスプーン、箸といった食具も必要ありません。丸く平らなお皿に、小さなお椀を数枚組み合わせるだけで食事が完結します。この平らな皿も、手で食べるという習慣に適応した形状で、料理を混ぜ合わせるのにも手で食べるのにも都合が良いのだそうです。
調理器具も必要最小限に抑えられています。カダイと呼ばれる中華鍋のような深い鍋は、少量の油で調理する時も、具材をたっぷり入れて煮込む時も使える万能な一品。これに圧力鍋、小さなスパイス用タルカパン、鉄板を加えれば、ほとんどの料理に対応できるのだといいます。
このお宅では、ジャイナ教の徹底的な殺生禁忌により、食材に細かな制約があります。その一方で、作るものが決まっているからこそ台所が整然となるし、虫をうっかり殺さないために、整頓や掃除も毎日丁寧に行われます。これに比べると、日本の台所には特別な挑戦が課されているとも指摘されます。和食、中華、イタリアン、エスニックと、日常的に多様な料理を作る日本の食文化は、必然的に、多様な調理器具や調味料を必要とし、より複雑な収納や機能が求められることになるからです。
「台所から料理が生まれるのは当たり前だけれど、料理から台所が作られていくという一面もある」。岡根谷さんはこの言葉で、インドの台所から見えてきた特徴を表現されました。整理整頓された台所は、単に住人の性格や好みだけでなく、作られる料理の特性や宗教的な制約といった要素が複雑に絡み合って形作られています。合わせて、「今後の食文化の変化で、台所がどのように変化していくのか」という点にもご興味があられると説明されました。
「食」は、社会を知る窓である
「『食』は、人が生きるためのもの、文化、楽しみ。それと同時に、私たちがこうやって世界を知るための一つの入り口にもなっている」と岡根谷さんは指摘します。世界の3つの台所を通して見えてきたのは、まさに食という窓から垣間見える、それぞれの社会の文化・地理・歴史な側面です。最後に、岡根谷さんは「たまには、この材料はどこから来ているのだろう、この料理の名前は一体どういう意味なのか、考えてみて。料理を入り口に世界への興味を広げてもらえれば」と会場の皆さんに語りかけ、講座は締めくくられました。
岩永 薫