特別講座 長谷川祐子「アートと建築の関係を考える」

2014年01月20日

2013年11月30日、会員公開講座の番外編となる特別講座を恵比寿スタジオにて開催しました。今回お越しいただいたのは、キュレーターの長谷川祐子さん。日々世界を飛び回って仕事をされる、世界でも有数のキュレーターです。その多忙なスケジュールの合間を縫って、2012年からお願いしていた講演が今回晴れて実現の運びとなりました。

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長谷川さんが初めてキュレーターを務めたのは、水戸芸術館においてでした。その後、世田谷美術館や金沢21世紀美術館での仕事を経て、2006年から東京都現代美術館のチーフキュレーターを務めています。“キュレーター”という言葉にどれほどの方が馴染みがあるでしょうか。一昔前に比べれば、かなり浸透してきたかもしれません。辞書を引くと、「博物館・美術館などの、展覧会の企画・構成・運営などをつかさどる専門職。また、一般に、管理責任者。」とあります。そのような仕事は、日本では“学芸員”という名称で呼ばれてきました。しかし現在“キュレーター”と言った場合、それだけでは留まらない、より多彩な価値が付加されて解釈されているように思われます。そのような中で、今回は“アートと建築の関係”に焦点を当てて、レクチャーを行っていただきました。

視覚アートというものは、建築や音楽、詩などに比べて、後から価値付けられたものだそうですが、それらは絶えず関係を変えていく文化的資質を育んでおり、それ故に切り離せない関係にあるのだといいます。先ず紹介されたのは、長谷川さんが大好きだという建築家オスカー・ニーマイヤー氏と、京都出身でブラジルに移住されたアーティスト、トミエ・オオタケ氏による『Ibirapuera Auditorium』。そこにはモダニズムの持っていたユートピア的なヴィジョンを見ることができるといいます。それはフォーマリズムとフォーマリズムの融合の世界であり、根底には文化によって知的で趣味判断のできる自立した強い市民をつくる、というアイディアが込められていました。絶えざる内と外との交渉の過程で得られる自立性、それを教えるのが文化であり、20世紀におけるその出発点は非常に融合的な形であったと長谷川さんはおっしゃいました。

対してポストモダンの世界では、ビルバオのグッゲンハイム美術館に代表されるように、非常にアイコニックで彫刻的な建築が生み出され、建築そのものがメディアと化していきます。それは当然内部のプログラムやアートとの不協和音を引き起こしますが、それはそれで面白いと長谷川さんは言います。「全てが調和していることが美しいとは思わない」という言葉は印象的で、問題となるのは時代をどう体現していくか、ということなのです。

その後の大きなシフトとして挙げられたのが、90年代から急激に進行したデジタライゼーションです。フィジカリティとバーチャリティの二元性、そして膨大な情報。それらが錯綜している中で、長谷川さんはキュレーターとして、分析的にあるいはマッピングできるように捉えることを心掛けているといいます。

次に紹介してくださったのは、東京アートミーティング『建築・アートがつくりだす新しい環境 ―これからの“感じ”』です。東京都現代美術館で2011年の10月末から2012年1月にかけて行われたこの展覧会では、私たちをとりまく様々な状況の変化に対して、今建築とアートが何を目指しているのか、その提案や実践が示されました。しかし、一つの価値観に決めつけないよう注意したといいます。決めつけてしまうと、それは権力になり得る。ここで提示されるのはそういうものではあり得ない。「美術館はメタファーの館」だと表現された長谷川さん。常にmaybeでありpossiblyである、と。この展覧会に参加した様々なアーティストや建築家の実験的な試みについて、その示されたポテンシャルやヴィジョンについて説明してくださいました。

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そしてこの展覧会にも参加しており、長谷川さんが最もよく知っている建築家だというSANNAに言及され、話は金沢21世紀美術館へと移っていきます。

ここで一つポイントとなったのが、コレクションにおける6つのキーワードです。

Displacement and transgression
Non-materiality
Generation and ecology
Everydayness and specificity
Quotation and reproduction
Participation and collaboration

伊東塾長は、これらのキーワードは建築の考えにも通じるものがあるようだとおっしゃっていました。

美術館において、建築家はしばしばそこにどのような作品が展示されるのか無頓着であるそうですが、キュレーターはそこに何が来るのかというシミュレーションが常に頭の中でできている、と語られました。そしてそれは、その土地の人々や記憶やポテンシャルに向かって何が出来るのか、というところから建ち上がっていくものなのだそうです。金沢21世紀美術館は、あの規模の自治体、そこに来る観客、つまり文化に広く関心を持つ普通の人々ゆえの非常にスペシフィックなコレクションなのだとおっしゃいました。

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そのような点は、次に紹介してくださった『INUJIMA Art House Project』にも通じています。ここでは島の建物を解体した古材を使ったり、ガラスの建物を挿入したりしながら、島の景観をこのプロジェクトにハイライトしていくということが行われました。ここで目指されたのは、一種の“桃源郷”。それは日常の傍にありながら、なかなか辿り着けないヘテロトピア的空間です。しかしそれを規定してくるのは意外にも、エアコンが使えないなどの即物的な条件でした。そして長谷川さんいわく、「良いアーティストであれば、建築の試練が大きいほど化ける」のだそうです。アートというと普遍的で抽象的なもののように感じられるかもしれませんが、生み出される時は、土地や人、又は制約条件など、そういう極めて実際的で具体的なものから生まれてくる、触媒的なものなのだと教えてくださいました。

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講義の終盤では、再び情報やバーチャリティについて触れられ、ここでは伊東塾長が設計したせんだいメディアテークを挙げられました。これまでブラックボックスであったメディアアートの器を非常にオープンなかたちにし、情報コンテンツ、アーカイブなどを上手く視覚化していると評され、レイヤー構造とそれをつなぐ柱(チューブ)に、バーチャリティと現実的身体のゆらぎを感じとられていました。

最後に、アートが建築空間とあわせて果たす機能に関して、私たちが生きている社会環境や情報環境、受容するものの格差の中で、その同時代性をどう分析するのか、そしてそれを超えていく要素は何なのか、ということを注意深く考える必要があるとおっしゃって、レクチャーを締めくくられました。

ここまでも凄まじい程の濃密なお話を聞かせてくださった長谷川さんでしたが、レクチャー終了後の質疑応答でも、伊東塾長や参加者からの言葉に応え、様々なお話を聞かせてくださいました。

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例えば日本におけるアートの状況について、アートのブランド化が過剰に進行し、文化が空洞化していると指摘されました。バブル期に絨毯爆撃のように各地につくられた美術館も、オープンしてから全く予算がつかず、一点買いで名作を集めて終わりといった有様。長谷川さんは、役所などのふだん市民が訪れる場所をギャラリーにするといった、プロジェクトタイプのものができてくるといいのではとおっしゃいました。とにかく人が来やすい場所にして、一方で各美術館ではコレクションを共有し魅力的な展示を実現させる。今ある資産をどう活かすかと、プラスのプロジェクトによってどう血を廻らせていくのか、これをセットで提案していく必要がある、隠れた面白い観客が日本にもいるんじゃないか、とも長谷川さんは指摘されます。

キュレーションの意義について聞かれた長谷川さんは、過酷な状況で展覧会をやって、そこから新しいものが生まれてきたときが面白いと答えられました。日本におけるアートは、その人間的な、生々しい部分にもっと目を向けてもいいように感じられました。

ご多忙にも関わらず、二時間半にも及ぶ濃密なレクチャーをしてくださった長谷川祐子さん、ならびにご清聴くださった参加者の皆様に心より御礼申し上げます。

石坂 康朗