会員公開講座 伊東豊雄「渡る世間は壁ばかり」
5月17日、恵比寿スタジオにて2014年度第1回会員公開講座「渡る世間は壁ばかり」が開催されました。今回は今年度会員公開講座の開講式も兼ねており、伊東塾長が自ら講師を務めました。
導入として、安部公房の『壁』が紹介され、壁が何のためにつくられるのか、というお話になりました。壁は仕切るためでなく、位置の固定のためにある。それは精神の死に繋がる。それでも壁をつくる意味はどこにあるのか。そして壁を越えるためにはどうすれば良いのか。そういった全体のテーマを、様々な壁を通して考えていきます。
最初のテーマは「制度の壁」です。陸前高田の防潮堤計画についてのお話でした。陸前高田には高さ12mもの防潮堤がつくられる予定です。幅は100mにもなります。更に内陸側は大々的なかさ上げが行われる計画で、陸前高田の「みんなの家」もかさ上げ予定地に含まれており、実際にかさ上げが行われれば半分程度が埋まってしまいます。こういった制度の壁を伊東塾長は「戦いようがない壁」であると言います。
次に「作品という壁」のお話になりました。岩沼の「みんなの家」と陸前高田の「みんなの家」を比較し、岩沼の場合は地元産のお米や野菜をNPOがんばッと!!玉浦が販売したり、子ども達が勉強や遊びの場に使っていたり、バーベキューが行われるなど、様々に有効利用されています。しかし「作品」として呼べるようなものではないと言います。
一方、陸前高田は「作品」ですが、岩沼に比べて利用状況はあまり順調ではないというのが現状です。建築家としては「作品」を全くつくらないというのは難しいのですが、塾長が日頃から言うように、「誰のための建築、何のための建築」ということは大事にしなければいけません。これは建築家の永遠の悩みかもしれません。
「壁によって壁を越える」のお話では、壁をつくることによって魅力的な空間が生まれた例の紹介になりました。一つ目は宮城県気仙沼市の「K-port」についてです。ここでも防潮堤の問題がありましたが、「K-port」の存在が光を指すことになりそうです。また、当初は劇場という用途でつくられていたために、壁が多めの建築となっています。最終的にはカフェとなったのですが、定期的に開かれるイベントのためのスペースとしても利用可能な空間になりました。また、港向きの開口から見える船が通り過ぎる光景が、より強調されて心地良い眺めを生んでいます。
「座・高円寺」では“閉ざす”ということを意識的に行っています。一つには立地が商店街から少し外れた場所であったため、さほど開く必要がなかったこと、そして得体の知れないところから何か生まれてくる、ということを実現するために壁が必要であったことが“閉ざす”ことに繋がりました。ちなみに「座・高円寺」はコンペ案の段階では箱のような形態でした。しかし、住民から「鉄の箱はちょっと・・・」という意見が挙がったことや、劇場であることから、劇団のテントのような特殊な形態になりました。
次の「越えられない壁」は「制度の壁」とも繋がるようなお話でした。川口市火葬施設の設計の際、公園と一体となって美しい景観をつくるようなものが目指されており、特に公園の橋から建物を眺めるパースはとても美しいものに仕上がっていました。ところが火葬施設を公園からできる限り隠してほしい、と言われてしまったために、屋根面緑化で覆い隠すことになりました。同時にテラスも実現できませんでした。また、内部の広々とした空間も遺族同士が顔を合わせないようにということで壁で分割することになりました。こういった問題は制度はもちろん、文化的な要因も多分にはらむため、越えることはとても難しいようです。
次はそんな悲観的な状況に光をさすような、「壁をなくして壁を越える」お話です。「みんなの森 ぎふメディアコスモス」は現在建設中の二階建てのメディアセンターですが、ここで目指されたのはできるだけ外に近い空間です。この建物には壁がほとんど入っていません。そのための工夫が様々に施されています。大きな空間のなかに小さな空間をつくるために、グローブを吊るして下は開けつつも程よく空間の分節がなされています。また、西日対策として西側にカツラの木でプロムナードがつくられ、壁をたてずに解決しています。
最後に「力ずくで壁をこわす」というテーマのもと、力が溢れてくるような作品が紹介されました。まず、伊東豊雄建築設計事務所が設計している「台中メトロポリタン・オペラハウス」は人間の体内をモチーフに、チューブによって自然と結ばれるということを目指しています。この建築は現在施工中ですが、連続的に変化する曲面の施工に非常に手間がかかっているそうです。トラス構法でつくられた型にコンクリートを流していくのですが、どの部分も同じ形が無いために、その場その場で型をつくっています。そのため、工期が非常に延びているそうです。だいぶ立ち上がってきましたが、内部空間は今まで見たことも無いようなもので、完成に期待が高まります。
次に、インドにおいてル・コルビュジェが設計した「チャンディガールの議事堂」のお話がありました。今年、塾長はこの建築を実際に見て、非常に感動されたそうです。そこには人間の生命力のようなものが溢れています。コルビュジェのヨーロッパの作品よりもより自由で人間的なものを感じます。
講義のまとめとして、塾長は「人は人であることによって壁を超えられる」と話されました。チャンディガールの議事堂のように、人間の生命力、情熱が壁を超えるための突破口なのかもしれません。
講義後の質疑応答では、建築家と作品という話題があがりました。「建築の意味は説明されないとわからないのではないか?」という質問に対して塾長は、説明や市民参加というものはすでに常識になっており、足しげく通うことで意味がわかってくるのではないか、と答えました。
一方で作品という壁を越えるためには建築家という意識を捨て、それを越える衝動を持つことが必要だと言いました。
また、伊東塾長が「“生と死”についてどう捉えているのか?」という質問への答えは、建築は“生”の世界の表現だということでした。「川口市火葬施設」の問題に戻り、制度の壁は本来、個人の問題、考え方のはずなのにそれが見えてこなくなる。個人に立ち返る必要がある、と指摘します。
最後に、伊東塾長の「常に変わっていくことの原動力は何なのか?」という質問があり、防潮堤の問題を取り上げ、力になれないことや壁だらけの現状に対する戦いの意欲が「みんなの家」での交流から生まれてきた、と答えました。
今回の“壁”というテーマを通して、伊東塾長の情熱的な一面が見られた講義でした。身近な壁から大きな壁まで、様々な壁に囲まれて生きている私たちは、もっと壁について考える必要がありそうです。ご清聴下さった皆様、誠にありがとうございました。
川副祐太