会員公開講座 市村次夫さん「小布施町のまちづくり」
2016年2月27日に2015年度最後の公開講座が開かれました。今回は桝一市村酒造場、および小布施堂の代表取締役で、長野県小布施町のまちづくりに長年携わってこられた市村次夫さんを講師にお迎えし、まちづくりの在り方についてお話しいただきました。
市村さんは始めに、伊東塾長からの「楽しい地域づくり」という会員公開講座のテーマには「楽しい、地域づくり」と「楽しい地域、づくり」という二つの捉え方があり、まちづくりにはその両方の捉え方が必要であると述べました。
そもそもなぜまちづくりが必要なのかということについて、市村さんはイギリスでのホームステイの体験を挙げました。新聞の不動産欄を毎日欠かさずチェックする滞在先のご婦人に対し、市村さんは自分の住まいを気に入ってないのかと尋ねたところ、ご婦人は嫌いじゃないが、条件に応じては家を売って移ることもあり得るとおっしゃっていたそうです。そのご婦人がある日、引っ越してきたばかりのパキスタン人の弁護士に、その地域の価値観を知ってもらうためにティーパーティを開きました。その理由は、かつて植民地であったインド、パキスタンからの移住者の中には、意識的にまちを汚すことで元の住民が土地を手放し、土地が安くなったところで本国から親族などを呼び寄せる人がいるからだそうです。この経験から、市村さんはヨーロッパの人々がまちを美しく保とうとするのは、単にキリスト教の宗教観や公徳心からではないと考えました。自分の資産を防衛するためであり、美しい景観と眺望をつくろうとすることはきれいごとではなく、資産を守ろうという住まう人々の力強さの表れであると述べます。
小布施の特徴である十四ヶ郷用水などの個人の敷地の中を走る用水路は、個人によって護岸工事が行われ、幕府領でありながらインフラは民間の資本によって維持管理されてきました。また、小布施の人々に「天明蔵」や「天明庭」と呼ばれる個人の蔵や庭は、天明の飢饉の際につくられたもので、民間資本による公共事業・社会事業としての側面を持っていました。市村さんはこの江戸時代から継続的に維持されてきた公と私のPFI(personal finance initiative;民間による財政主導)の関係性が、町並み修景事業においても重要な点であったと言います。
人口11,000ほどの小布施は、西を千曲川、南北をその支流、東を雁田山に囲まれています。まちの南を流れる千曲川の支流である松川はもともと複数本の流れからなっていましたが、江戸初期の領主、福島正則公によって流れの一本化、堤と用水路の整備がなされ、沼地の造成よって生まれた土地に新たに市場と農地ができたことで、今につながるまちの構造へと大きく変化しました。小布施は西に流れる千曲川の川湊としても栄え、江戸時代から名産であった栗は幕府への献上物として生産および生産地が統制されていました。また、葛飾北斎が逗留していたことでもよく知られ、北斎によって制作された貴重な肉筆画や天井絵があることから、それらを展示する美術館の建設や、北斎の絵画に関する会議が開催されています。このように小布施は、政治、経済、文化的な要因が地形と結びつくことで、その町並みが形成されてきました。
以上のように小布施というまちのこれまでを述べた上で、話はまちの「修景」事業へと移っていきます。修景事業による平面プランの変更などは、建築保存の一部関係者から批判を受けつつも、「内は自分のもの、外はみんなのもの」という住民意識と「ただ見た目を良くするのではなく、居心地の良い空間をつくる」という目標を基に進められました。そこには道やその舗装の変化、道と建物の間を流れていた水路の消失など、それまでと大きく変化しつつあったまちの現状に適合するように「修景」するという意図があります。その意図はまちの人々に親しみ深かった砂糖倉庫蔵の宿泊施設へのコンヴァージョンや、「小布施系」と呼ばれる現代彫刻展の開催による新しいまちをアピールしようとする試みにも見ることができるとお話しされました。
小布施のまちづくりの話は、修景事業のようなハードに対する提案からソフト的な提案へと移っていきます。“Welcome to my garden”と呼ばれる提案では、個人の私庭を開放してもらうことで、商業を介さずにコミュニケーションをつくることが試みられます。
また、「小布施見にマラソン」と呼ばれる市民マラソンでは沿道での自由な音楽演奏を可能にし、スタートやゴール、給水所を住民が手づくりし、まち全体を巻き込んだ提案がなされています。
こうした新しいまちの発信をしている成果もあって、小布施では、フランスでワインづくりを学んできたワイン生産者が高原野菜農家から買い取った中古農機具にネットを利用して海外からアタッチメントを輸入して取り付け再販売したり、カナダ人のインテリアデザイナーが自主制作したベンチをまちに設置したりするなど、新たな事業を始める若者が現れてきているとのことでした。
最後に市村さんは、変化を恐れずに積極的に取り入れていくことの重要性を述べられました。高齢化するまちでは、まちの外に住む若者に積極的に入ってきてもらう必要があり、小布施らしい景観がある程度できてきた今、より多くのまちの外の若者が小布施の建物を借りて、飲食やめずらしい商売などをしてくれることで、まちに新たな面白い集積が生まれていくことを期待しているとのことでした。
実際にまちづくりに携わってこられた市村さんに対し、現在、大三島の地域づくりに携わっている伊東豊雄塾長、伊東建築塾の会員と塾生のみなさんから多くの積極的な質問がありました。
伊東豊雄塾長(以下敬称略、伊東):どうもありがとうございました。まず改めて詳しくお伺いしたいですが、小布施でのまちづくりは自治体が中心となって行われてきたのでしょうか?あるいは、別に委員会のようなものがあるのでしょうか。どのようなかたちで進められているのか、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。
市村次夫氏(以下敬称略、市村):まちづくりのきっかけは、父の死をきっかけに実家のある小布施に戻って家業である商売を引き継ぐとともに、小布施町長であった父が生前に話していたまちのイメージと現実のギャップを埋めるための景観づくりということに、従弟とともに取り組み始めたことでした。
町長だった頃の父をよく知る従弟と話す中で、行政に味方になってもらうように景観づくりを進める必要があるということになりました。しかし、私たちと行政それぞれの目的が違うので手を取り合ってというのではなく、行政が応援してくれるような業績をつくりながら、行政が二の足を踏まないような方法を提案して景観づくりを進めていくということになりました。
また、当時は街並み保存が全国的に行われ始めた頃で、比較的に年齢が若かったまちの総務課長に相談して、全国街並みゼミに若い職員数人を送ってもらい、当然こちらからも数人送って、行政にまず「保存」についての理解を促しました。
伊東:ちょうど1980年頃のことですね。その当時まだ小布施に観光客自体はそれほど多くなかったと思うのですが、どのようにして自治体からの投資を可能にしたのでしょうか?
市村:「修景」事業の名目は、第一に住環境整備でした。観光投資を第一にすると回収という問題があるので、テーマパーク的な中身の薄いことしかできません。ただ住環境と言っても、それは住まう人だけでなく、そこを通りがかる人も含めた広い意味での整備です。第二にアイデンティティ、小布施らしさ。そして、第三に産業・観光振興。子孫のための資産づくりになる住環境整備とすることで、回収という決まりから逃れて投資をすることができます。
伊東:なるほど。その中で市村さんご自身はどのようなポジションを担われていたのでしょうか?
市村:組合とは異なり、「五者会議」というものを設置しました。町役場、長野信用金庫、小布施堂、そして個人二者の五者で形成されていました。発言権は5分の1ずつで、もう一つ重要な点は識者などを入れていない点です。識者を加えることは、整備事業に責任を負っていない、すなわちリスクを負っていない人の意見を加えることになるからです。
伊東:確かにリスクという話はすごく重要なことですね。塾生と島をどう元気づけていくかを話し合っているとき、自ら関わろうとする意識があるのとでは、意見の重みが全然違います。
市村:私たちは都会に住む親戚から何か意見をいただいたときは、ありがたく伺って、すぐ忘れるようにしていますね。(笑)
伊東:30年ほど前に市村さんが「五者会議」を始められた頃と現在とでは変わってきたことはありますか?
市村:リスクを負っていない意見は取り入れないという考えが少しずつ浸透しつつあります。もう一つ大きく変わってきた点は、経年価値に気づき始めてきたということ。変わらないものがところどころある、という価値に30年前より気づき始めていると思います。
伊東:僕も長野県の諏訪で育って、そのまちには立派な神社があるにも関わらず、あまりまちづくりが進んでいない気がするのですが、小布施との違いは何だと思いますか?
市村:10年くらい経ったときに小布施のまちの内の雰囲気が変わってきた気がします。農家も農地を全部耕作するのは難しく、現金収入が欲しいのでアパート経営を始めました。そうしたときに小布施は周辺市町村より入居率が高く、資産価値も高いことに気づき始めます。そうすると、それまで観光事業に一切関係ないと思っていた人々が協力的になってきます。もう一つは小布施の知名度が上がることで、自身の世代ではあまり関係がないかもしれないが、子どもたちの世代には役に立つかもしれないという意識が生まれたことですね。最近、全国的で観光客が急に増えて、むしろ迷惑だって言われていることが多いですが、そういう10年間の積み重ねがあるのって強いですよね。
伊東:もし市村さんが大三島でまちづくりをするならば、まずは何をなさいますか?
市村:やはり大山祇神社の非常に価値が高い文化財をきちんと展示できるようにしますね。それに大山祇神社への参道をもっと大事にすべきだと思います。「スノーモンキー」と呼ばれる長野県の温泉に入るサルが海外では人気で、白馬にスキーに来る外国人観光客は見るために往復1時間かけて歩かなければならないのですが、それが結構受けているんですね。大三島はこれまでは便利が一番で、車で来てすぐ本殿となっていた在り方を見直していかなければならないと思います。
伊東:市村さんのところへお伺いするといつもおいしい料理をいただけるのですが、どのようにして「食」の質というものが上がってきたのでしょうか?大三島も素材は良いのに、若者にはなかなか受け入れられにくい現状です。
市村:理由はいろいろあると思いますが、一つには、長野市のような地方中核都市が弱ってきているということがあると思います。本来ならば、それらの都市が提供していたような質の料理、特にかつては料亭などで出されていたような質の料理を、代わりに役割を補強するかたちで小布施が、というところはあると思います。もう一つは、「お客」のためのスペースとしての食事処という考え方です。昔の豪農が邸宅の7割を占める客間で客を接待したように、期待以上のグレードのものを提供することでリピーターを増やしていけると思います。
伊東:そのためには意識的に外からたくさんの料理人を集めなければならないのですか?
市村:いいえ、例えば地元の人間に一番暇な2月の時期に休みを取らせて、海外で料理を修行させて来たりしているのですが、それは彼への投資であるとともに地域への投資であるとも考えています。なので、あまり外から人を呼んできても意味がないと思っているんです。逆に、外の人でどうしても小布施でやりたいという自発的に来る人は大歓迎ですが。
伊東:商品のブランディングなどにも力を入れていらっしゃいますよね。
市村:はい、メディア・デザインには力を入れています。やはり観光地を目指すからといって観光雑誌に載るようなことはしてはいけなくて、むしろ建築雑誌やデザイン雑誌に取り上げられるようなものにしなければならないと思っています。この点は商工会や町役場を強く説得して今でも続けている点です。もう一つ気を付けているのは、ローカルメディアのわなというものです。例えばラーメンを例にとると、おいしい地域とそうでもない地域があるのに、ローカルメディアが全国版の真似をしてランキング化することで、大した質でもないのにその地域の中での名店ができてしまいます。これも特に注意しておくべきことだと思います。
伊東:そろそろ終わりの時間が近づいてきましたが、最後に質問がある方はいらっしゃいますか?
塾生:お話をお伺いし、市村さんがおっしゃっている観光というのは僕たちが考えているいわゆる観光とは違うものだという印象を受けたのですが、市村さんにとって「観光」とは何でしょうか?
市村:これは30年前に従弟と話していたときから変わっていないことなのですが、観光とは究極的に「ライフスタイルを見に来ること」だと思っています。観光は「もの」や「イベント」だけではなく、そのベースにライフスタイルがあるわけです。自分たちも、そのときから今に至る30年、40年をどのように生きていくかことは、それ自体が観光資源になるということをよく話していました。もちろん、ネタとしてのお宝も必要ですが、それだけでは文化財のまちになってしまいます。だから現在進行形の文化を見せることが重要なんだろうと、それは今でも変わっていません。
市村さんの小布施におけるまちづくりのお話は、建築や食などさまざまな分野での取り組みのことから行政との関係のことまで、実際に30年以上にわたってまちづくりを行ってきたからこそ分かる貴重なご意見がたくさんありました。また、観光とは究極的に「ライフスタイルを見に来ること」という最後のご意見は、前回ご講演いただいた放送作家の小山薫堂さんがおっしゃっていた、地域の人々自身が主体的に再発見して共有した地域の魅力を外部へと発信するという観光に対する考え方にも共通するものだったと思います。「まちづくり」とともに、これからの「観光」についても一緒に考えていくことができた、非常に有意義な講演会となりました。
泉勇佑