釜石フィールドワーク

2011年10月29日

26、27日にかけて、養成講座の塾生たちと東北へ再び行ってきました。
今回の目的の一つは伊東さんが仙台に設計した「みんなの家」を見に行くこと、二つ目は塾生達が釜石に提案する「みんなの家」の参考にするためのフィールドワークを行うことでした。

26日の朝早く出発した私たちは、まず仙台市にある伊東さん設計の「みんなの家」に訪れました。「みんなの家」とは伊東さんが仙台駅から電車で数駅先にある福田町南一丁目公園に設計した共同リビング(?)のようなものです。それは仮設住宅のすぐわきに設置されており、建物の濡縁から伸びた廊下で仮設住宅と接続されています。その日は「みんなの家」の竣工式で、仙台市の副市長等が来て挨拶をし、その後巨大な鍋で造られた芋煮を食しました。熱々の芋煮は、寒空の下で食べたということを抜きにしても、絶品でした。

さんざん議論され尽くしていることでしょうが、仮設住宅の実態は想像以上に酷いものです。住んでいる方々が実際にどのように思われているかはわかりませんが、端から見ていてもその閉塞感が伝わってきます。冷えきったパネルによって構成された外壁が内側を守るように立ちはだかります。とても閉鎖的なのにも関わらず、どこかプライバシーが侵害されているような感覚。その結果、建築を超えて人間までもが閉鎖的になっていく。その矛盾はまるで都市が抱える問題の縮図のようでもあります。そう考えるとよく学生達が無自覚に行う、個室の入り口を都市にダイレクトに開いたような提案や、公園のような人の集まるパブリックスペースに晒された住宅のようなものの非現実性を痛感します。それは私の思考が現代の社会構造の枠組みから脱却しきれていないからだと批判されてしまえばそれまでですが、建築が都市に開くというのは、ただたんに物理的な操作をすることだけで解決する問題ではないでしょう。
仮設住宅に限らず、都市の中のそんな息苦しさを少しでも緩和するために、「みんなの家」は計画されました。
伊東さんによる「みんなの家」は仮設住宅に隣接していますが、実は地元の人ならば誰でも使えます。仮設住宅に住む人たちが集まって、ただ話をし、お酒を飲み、宴会をするための小さな小屋です。もしかしたら地元の人たちも集まって、新しい交流が生まれるかもしれません。見た目も一見すると本当にただの切り妻の建物で、インテリアの軽やかさや外壁の清潔さは伊東豊雄らしさを感じさせますが、何も知らない人が見てもあの「メディアテーク」を造った人物の作品だとは思わないでしょう。

しかし伊東さんはそれでもいいと言います。今回の震災を経て、建築家としてのエゴとの大きな葛藤があったのではないでしょうか。そういったものをいったん捨てて、全くゼロの地点から、今この瞬間に本当に必要なものは何かを探求された成果が、そこからは見て取れます。
私はメディアテークの設計者である伊東豊雄として設計する「みんなの家」にも興味がありますが、それを一切捨て去った決断までには想像もしえない徒労があったと思います。

その後私たちは慌ただしく釜石に移動しました。
釜石では養成講座の塾生達が、自分たちなりの「みんなの家」の提案を行います。6月にも一度訪れていますが、今回は「みんなの家」を提案するにあたり、フィールドワークを行うために訪れました。
現地では元釜石市役員で、退官されたにも関わらず町づくりのために勢力的に活動されている岩間さんが出迎えてくださり、みんなで食事をしました。岩間さんはこの釜石の街をこんな風によりよくしたいんだという熱い思いを語ってくださいました。その思いを聞いていると、中途半端な介入はかえって見透かされるだけで、本気でその場所を変革したいという確固たる思想がなければ中途半端にはじき出されてしまうだけだと感じました。

次の日朝早くから私たちは釜石市の漁港に向かいました。漁港は莫大な被害をうけ、地盤沈下した区域もあったようです。一時期閉鎖されていましたが、私たちが訪れたときには、地盤沈下した場所以外はすでに再開していました。

私たちが図々しくも質問をしようと押し掛けると、その中でも最も偉いと思われる方が直々にいろいろと説明してくださいました。話の中で特に象徴的だったのは、彼がしきりと釜石市民を批判していたことです。”外部から参入する他者に頼り切りで、内部の人間はなにもしない。暇さえあれば日がな一日パチンコをしては過ごしている。自分は働きもせずに復興が遅いと文句を言う。”実際に身を粉にして働いている人に、確かに一日中パチンコをしている人がよく映りはしないでしょう。しかし、その暇だと思われている彼等とて、仕事はありませんから、一日中パチンコをする以外にないのです。もちろん仕事を選ばなければなんらかしらはあるのかもしれませんし、それはまだ調査しきれていないので応えようがありませんが。
その後は伊東さんや釜石市の人たち、東北大学の小野田さん等によるミニレクチャーを多摩美術大学の学生達と聞き、解散後にそれぞれがインタビューしたい人たちのところへ別個に訪れました。
私は他の塾生、スタッフ達と釜石にある鵜住居小学校を訪れました。鵜住居小学校の校舎は被災し、現在は数キロ離れた小佐野小学校の場所をかりています。伊東建築塾は以前にも鵜住居小学校の子ども達を今治にある伊東ミュージアムに招待し、些細なワークショプを行いました。そのためスタッフの何人かは子ども達と既に顔見知りで、そのせいもあってか、大勢の子ども達がわざわざ私たちの訪問を出迎えてくれて、手厚い歓迎をしてくださいました。
子ども達に対するヒアリングで象徴的だったのは、仮設住宅では騒げないという話でした。壁が薄く、しかも高齢の方が多い釜石の仮設住宅地では、どこか静かにしていなければいけないような暗黙の強制が働くようです。東京の狭小地や、隣との壁が1mmもないと思わせるようなマンションで育った子ども達からすると騒げないのは当然なのかもしれませんが、もともと一軒屋で育った子たちには、それは無意識にもストレスになっているようです。

今回、仙台、釜石を訪れ、塾生達には大変な刺激になったことと思います。この街が変わるための僅かな一歩に、養成講座が深く関われればいいと願います。