会員公開講座 寺谷誠一郎「日本の原風景に磨きをかけ、過疎地を観光地に」

2016年02月16日

7月26日、恵比寿スタジオにて会員公開講座が行われました。
今回講師としてお招きしたのは、鳥取県智頭町長を務めていらっしゃる寺谷誠一郎さんです。寺谷町長は少子高齢化に悩まされていた智頭町をいかにして観光地として盛り上げていったか、ご自身の体験を語って下さいました。
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日本は「ニセモノの国」だと感じる、という話からレクチャーが始まりました。きっかけは東日本大震災でした。日本が一大事ということですから、日本のトップである総理大臣は的確な指示をしなければなりません。しかし、実際はヘリコプターで現場まで赴いたときに、指示命令の椅子には誰も座っていなかったということになります。そのようなことがあっていいのでしょうか。学者や企業も同様に「ニセモノ」だと感じられました。すると、私たちは一体何を信じて生きていけばいいのでしょう。一方で、自分が本物の町長なのかと問われれば、残念ながらそれもわからないと寺谷町長は言います。以来、本物の人間とはどういうことなのか考え続けていますが、未だにわからないということです。人間は本物になれない動物なのかもしれないが、本物に近づく努力はしなければいけないとおっしゃっていました。

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そのためにできることとして、寺谷町長はまず智頭町にある87の集落、それぞれの幹部を訪ねました。それまでの議員選挙では、住民からの票が欲しいがために住民のお願いをすべて聞くということがありました。そこで、寺谷町長は「あなたに一票入れたからお願いを聞いてほしい」という住民の「要求型」を一切認めないことを、幹部たちに宣言しました。代わりに提示したのが、「提案型」と「協力型」の市民参加です。「協力型」では、欲しいものがあれば住民みんなで汗をかきながら努力し、その上でお願いがあればなんとかしよう、という姿勢になります。思い切った案に対する反応は二通りで、反発する人もいれば、理解を示してくれる人もいましたが、次第に後者の機運が盛り上がっていったのです。

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寺谷町長は若い頃は政治の道に入ろうとは全く思っていなかったそうです。当選はしないだろうというくらいの心意気で町長選挙に立候補してしまいましたが、それを知って周りは驚きました。奥さんからは「男たるもの落ちるときのやり方、美学もある。それをしっかりしなさい」と諌められ、その日から奥さんは「主人をお願いします」と家々に頭を下げて回りました。するとそのおかげで、現職の町長、議長を超える票を獲得することができました。

町長になった寺谷さんは、まず智頭町が日本に誇れることは何か、と考え始めました。今さら5階建てのビルを建てても都会にはどうしても勝てないので、何かないだろうかと思ったときに、日本で5本の指に入る山林王と言われる石谷家が思い当たりました。これを一般公開しようと即決し、宣言してしまいましたが、それには周りは冷たい反応でした。番頭さんに屋敷を出て行ってほしいと頭を下げて伝えましたが、もちろんそう簡単に了承してくれるはずがありません。どうしたものかと悩んでいると、ある日、石谷家の奥様とお屋敷の前でばったり出会いました。せめて五日間でいいので公開したい旨を告げると、なんとその場で番頭さんに許可をもらってくれたのです。それでも役場では一般公開しても人が来るのか、入場料を取る必要があるのかと心配は尽きませんでしたが、蓋を開けてみると5日間で1万5千人もの人が訪れました。 特別公開1 特別公開2特別公開3一夜明けて寺谷町長は町の英雄になっていたと言います。ご主人は自分の家がここまで皆様に喜んでもらえるとは思っていなかったと言い、2つの蔵を残して全て寄付することを了承してくださいました。

しかし、今度は維持管理が問題になります。そこで、寄付をもらうために鳥取県に寄付をお願いしに行きますが、そう簡単にはいきません。そこで寺谷町長は、知事の奥様もいらっしゃっるように伝えた上でお話の席を設けました。すると奥様同士の会話を通して、石谷家を鳥取県の迎賓館として使うアイデアが通ることになりました。

話は移ります。町内のある小学校で全校生徒を集め、智頭町の自慢は何かと聞くと子どもたちが黙ってしまったという出来事をきっかけに、寺谷町長は彼らに何か誇りをつくってあげなくてはと感じました。そこで思いついたのが、放置されていた山村集落でした。集落の人たちは皆、街に出てしまい、空間だけがぽかんと残っていました。この集落の保存を決意し、予算を付けてまず草屋根を残そうと提案しました。そこで集落を離れた人たちを再び集め、草屋根を直していると、NHKの女性記者がその様子を取材しに来ました。ローカル放送の予定だった取材を、寺谷町長が要望して全国放送にしてもらうと、大阪から住みたいという若い女性が現れ、その山の中で喫茶店の管理をしてくれることになりました。寺谷町長は彼女が集落に魂を入れた感じがしたと言います。板井原(藤原家)

ところが、鳥取市に合併されるか否かを決める住民投票に負け、寺谷さんは町長を辞めてしまいました。町長には合併派の候補者が就任したのですが、しばらくしてある日、若者たちがもう一度復帰してくれと家にお願いに来ました。寺谷さんは、自分は賞味期限切れだと伝えましたが、若者たちは引きません。「一緒に戦ってくれ」という彼らに負け、1期だけでも復帰しようと請け合いました。それが2期になり、気づけば3期が経とうとしてます。
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寺谷さんは町長を4年間退職しているときに色々な町を回り、気付いたことがありました。国や県、町にお金がないと、住民は仕方がないと思ってしまうのです。そこで寺谷町長は、知恵を町民から借りる「100人委員会」を結成しました。お金がないなら、知恵を出せばいいのです。これは実際に住民からヒアリングするための会を開き、いいアイディアには直接予算をつけてしまうという大胆な案です。今の智頭町の新しい試みの大部分が、この100人委員会によるものだそうです。

百人委員会「100人委員会」の様子

森のようちえんまるたんぼう森のようちえん まるたんぼう」も、この100人委員会から生まれたものです。東京から来た女性が言った「こんな緑に囲まれた町で子育てができるなんて最高ですね」という言葉がヒントになりました。智頭町にあるのは雑木林ではなく林業のための山林ですが、山で自由な子育てができるという強みに気づかせてくれました。寺谷町長は早速この女性を100人委員会に誘い、「森の幼稚園」をつくることになったのです。テレビ局で2年間子どもたちを追った番組が放送されると、智頭町には問い合わせが殺到しました。更には160カ国でも放映され、東京・海外からの居住者が増えたことで、国にも影響を与えました。今では県からも予算をもらっています。

今の学校教育では、先生が触れただけでセクハラになってしまうなど、従来の教育が崩壊しています。家庭教育でも親は厳しく叱れない時代になっていますし、地域教育に関しても昔は地域みんなで育てていましたが、今は東京だけでなく田舎も、互いに関わるのを辞めようという風潮になってきています。この状況で、文部科学省を頼ってはいけないと寺谷町長は言います。文科省の言う通りの「いい子」を寄せ集めても、うまく組み合わさることはありません。色々なタイプの子どもたちがいるからこそ、しっかりとした繋がりができるのです。

ある日、毎朝他の町から智頭町に通ってくる県立高校の生徒たちのエネルギーを、町づくりに使ったらどうだろうかと思いつきました。学校を一歩出たら、やりたいことを町の予算を付けてでもやらせてあげたいという考えです。それを伝えても、学校は文科省的な教育の場だというスタンスを頑として崩さない校長に頭にきた寺谷町長は、もっとやんちゃな校長に代わってもらい、共にそのアイデアを実行しました。するとその途端、以前の校長によれば「頭が悪い生徒ばかり」だった高校は、なんと「観光甲子園」で日本一になったのです。

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そして高校生の「100人会」が作られることになり、その後ある中学の教員からも要望が出て、中学2年生にも「100人会」として予算が付くことになりました。その中学では、智頭町の達人を自分たちで探して、撮影やインタビューをして、本にまとめるということを行いました。失敗してもいいけれど、中学生たちは地元のおじいさんたちと必ず顔を合わせることになります。そういうことが町づくりに繋がると寺谷さんは信じ、「子どもたちが町を救う」というテーマを掲げています。百人委員会(中学生1)百人委員会(中学生2)

いま、智頭町に移住する若者が増えてきています。しかし、結婚しても土地がないから家が建てられないという問題を抱えていました。そこで、家を建てるなら地元の大工を使い智頭の杉を使うことを条件に、智頭町の町有地を無償で提供するという試みを行うと、定住が実現し、子供も増えていきました。

そしてあるとき、既婚の若者が家族で移住してきて、町長に会いたいというので会ってみると、彼は何と大麻を栽培したいと言い出しました。ところが彼は真剣で、かつては広く栽培されていた麻を蘇らせたいのだと言うのです。そこで寺谷町長は、恐らくダメだと思うが挑戦はしてみよう、と請け合いました。早速大麻に詳しい弁護士を呼んで話を聞くと、大麻の認可権は国ではなく、知事が持っていることを教えてくれました。知事も新人だったこともあり、寺谷町長はこれが行けると確信しました。最終的には知事は認可し、大麻栽培第一号となりました。以降、思いがけず宮内庁や花火屋などから問い合わせが来るほどの反響がありました。かつて重宝されていた麻も、今では中国産しかないため、国産の麻にはそれだけ需要があったのです。

麻の桶蒸1 麻の桶蒸2 麻の桶蒸の様子

また、いま智頭町では「疎開保険」を行っています。町づくりの火付け役になってもらっている老人方に、本物の米や野菜を作ってもらい、高く買い取ります。そして年1万円の掛け金をしてくれた全国の方へ贈りましょう、という試みです。その野菜を作ったおばあさんには東京から喜びの手紙が届き、「自分が長年生きてきて、野菜がこんなに喜ばれるとは思っていなかった」と寺谷さんに伝えたそうです。疎開保険2

智頭町の町おこしの各々のエピソードからは、寺谷町長の迎合せずに本気で取り組む姿が伺うことができました。お忙しい中講義をしてくださった寺谷町長、ならびにご清聴いただいた参加者の皆様に心より御礼申し上げます。

生沼幸司