会員公開講座 北山恒さん「都市って何だろう」
9月2日、長年、都市と建築について思索を重ねてこられた建築家・北山恒さんをお招きして、第4回目の公開講座が開催されました。北山さんは、横浜国立大学や法政大学などで教授を務めてこられたほか、行政アドバイザーとしてもご尽力なさっています。
今回の講座で考えるテーマは、「都市」って何だろう。全体像を捉えることが難しい本テーマに対して、北山さんには、4つの小話題の組み合わせというかたちでご回答いただきました。
都市の理解のために、3つの観点
本テーマについてスムーズに理解するために、北山さんが必要と考える3つの前提知識の共有から、講座はスタートしました。
一つ目は、「都市はツリーではない」という観点。これは、当時20代の学生だったクリストファー・アレグザンダーが小論文「A City is Not a Tree」で著した議論で、北山さんが建築を学び始めた時、最初に学んだ都市論だったのだそうです。アレグザンダーは、この論文内で、当時の建築家たちがこぞって発表する“人工の都市”が、“ツリー構造”であることを鋭く批判しました。“ツリー構造”であるということは、階層的で機能分化した管理しやすい効率的な構造を持つということです。「その結果、“葉っぱ”部分が互いに切り分けられ、つながりがないことに問題点がある」と北山さんは説明を加えます。一方で、アレグザンダーは、長い年月を経て出来上がった“自然の都市”のように、多様な要素が互いに関係性を保ちつつ混然と絡み合う“セミラティス構造”の都市を評価しています。「たとえば、鳥越皓之著『村の社会学』(2023年、ちくま新書)に描かれている滋賀県琵琶湖湖畔の集落図を見ると、裏山・小川・田畑など自然と一体となった空間の有り様がよくわかる」と、北山さんはおっしゃいます。都市史がご専門の建築史家・陣内秀信さんが提唱されている“テリトリオ”も、まさに同様の論点を説明するものです。
二つ目は、「現代社会において、個人・共同体・自然がそれぞれ切り分けられてしまっている」という観点。ここで北山さんが紹介したのは、公共政策・科学哲学研究者・広井良典著『ポスト資本主義:科学・人間・社会の未来』(2015年、岩波新書)に描かれているダイアグラムです。「現代社会を生きる私たちは、コミュニティとの密接な関係性に欠け、もはや自然とも一緒に生きてはいない。建築だけでなく色々な分野が、この点を改善したいと取り組んでいる」と、北山さんは説明を加えます。
そして三つ目は、「人口動態の変化」という観点です。ヨーロッパで起きた産業革命以降、日本でも明治維新後に文明改革を行い、近代都市を実現させてきました。一方、“都市”は、必ずしも人々にとって幸せな空間システムとはいえないのも事実です。「現代都市類型」では人々が分断され、ジェンダーギャップを助長するような空間構成を作ってきたという批判もあります。こういった点を踏まえ、たとえば20世紀初頭に登場した学問分野の都市社会学では、“都市化が進めば人口が減少する”という議論がなされています。
近代主義の都市って何だろう
それでは、建築家たちは“都市の近代性とは何か”という点をどのように考えてきたのでしょうか。たとえば、1920年代に近代都市の計画を発表したル・コルビュジエや、ドイツの建築家・都市計画家のルートヴィヒ・ヒルベルザイマーは、既存の空間に人々が効率的に居住するための“高層建築都市”を考案しています。また、1950年代に発表されたチャンディガールの都市計画(ル・コルビュジエ)や、ブラジリア都市計画(ルシオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤー)では、歩車分離やゾーニングといった、用途による分離が徹底されています。
日本に目を向けると、1960年代には、東京計画1960(丹下健三)や海上都市(菊竹清訓)のように、海上を利用した人口都市の構想が発表されました。北山さん曰く「海の上だから人々は逃げようがない、予め決められたルートを使うしかない。アレグザンダーが一番怒ったのがこの計画だった」のだとか。
こういった“近代都市”での居住のための建築例として挙げられるのが、1972年竣工の中銀カプセルタワービル(黒川紀章)です。集落や村とは異なり、人々は各住戸に切り分けられ、隣人との関わりは一切ありません。現代の私たちが東京で当たり前に見ているタワーマンション群も同じです。中央にある垂直動線から自分の部屋に入ってしまえば、隣室の存在を意識することなく無限の遠方を窓から眺め、プライバシー性が高い空間で過ごすことができます。「お隣で何かの事件があったとしても全く気づかずに過ごせる。そんな不動産商品に高い交換価値がある」と、北山さんは過激な言葉で説明を加えます。
世界の都市ツアー
もちろん、世界を見渡せば、“近代都市”以外にも、色々な都市が生まれたり、作られたり、改変されたり、継承されたりしてきました。まずは、今年の春に北山さんが訪れたイタリアから。訪問の目的は、ヴェネツィアビエンナーレオープニングを見ることだったのだそう。そんなヴェネツィアは、11世紀ごろから栄えてきた、海に連なるラグーン(潟)上の都市です。建物の隙間には、自然発生的に生まれ、長年使い続けられてきた狭い小道や運河が張り巡らされています。先述の広井さんの言葉を借りれば、まさに“個人と共同体と自然が着陸している状態”が維持されている都市です。同様に、45年程前に4ヶ月間下宿生活を送ったフィレンツェにいけば、当時と変わらず街の中央に聳えるドームやルネッサンス期の建築を見て、若かりし頃の様々な思い出が蘇ります。「これらの都市では、人間の生命スパンを超えて都市が持続している。こういった空間が生活の場として存在するからこそ、ヨーロッパの思想家は、都市空間と自己の確立とを同一化するかのような思想を生んできたのではないか」と北山さんはおっしゃいます。
では、日本の歴史的都市はどのような姿をしていたのでしょうか。北山さんが提示したのは、イギリスで活躍したイタリア人写真家フェリーチェ・ベアトが19世紀半ばに撮影した江戸の風景写真です。当時の江戸の65%を占めていたのが武家屋敷。その敷地内には、自然あふれる大きな庭園があり、世界でも珍しい“ガーデンシティ”として知られていたそうです。そんな江戸は、起伏に富んだ地形に合わせて都市が作られました。
一方、同じアジアで首都機能を持った都市・長安は、“経済と政治とが一体になった場所=都市である”という儒教思想をもとに紀元前6世紀に計画されました。約10km四方に渡って、土地を機能で分ける効率的な巨大なグリッドが敷かれた大きな都市です。同時期にヨーロッパで作られたグリッド都市として、古代ギリシア植民都市ミレトスが挙げられますが、こちらのグリッド構成理念は、“人々は平等公平というリパブリックの思想”という違いがあります。都市計画家ヒッポダモスによって作られました。都市の真ん中に人々が集まり共和政治を執り行うための広場がある点も、長安とは異なります。その他のグリッド割のロジックとして、“不動産商品の区割りとして”形成されるというものもあります。1811年に弁護士・不動産鑑定士・測量士の3名で作られたニューヨークのマンハッタン・グリッドがその顕著な例です。
最後に、人口密集地である旧市街が大規模再開発された歴史的事例として、県知事オスマンによるパリ大改造が提示されました。これは、交通網や都市の衛生面の改善、市民革命を速やかに鎮圧できるよう軍隊を動かしやすい動線の確保などを目的としたものでした。ブールヴァール(大通り)が張り巡らされ、統一されたファサードが設けられるなど、現在のパリの基盤を形作った計画です。「当時は、オスマンによる暴力的な開発に対して大きな反対運動が起きたが、今見てみると魅力的な都市になっている」と北山さんは評価しています。
空間人類学?
これまで見てきたように、都市には、実に多様な形態や成立経緯があるようです。最後に、“集団で生活するという人間の特性”を踏まえ、都市とはどうあるべきなのか、北山さんの考えをお伺いしました。
人類学者の山極壽一さんは、“言葉という記号操作ができるようになった後に社会集団が生まれた。脳が社会を作った”という趣旨の議論をされています。ヒトの脳が持つ個体認識の限界は、150人。これは、村の人間関係の規模に匹敵します。顔見知りの人々で構成された村に対して、都市の規模となれば、見知らぬ多数の人々と同じパブリック空間を共有しなければなりません。だからこそ、プライバシーが必要とされるものの、それはまた、人々を切り分け孤立させることと表裏一体です。加えて、見知らぬ多数の人々と生きる都市空間では、皆の安全性が担保されるためにも、監視システムが必要になります。こうした常に監視され緊張を強いられる都市で生きていくということは、人間の脳にとって不自然な状態であり、強いストレスをもたらすのです。
このストレス空間におけるオアシスとして19世紀のヨーロッパ都市で見られたのが、サロンやアソシエーションといった、親密な人々が集まり時間と空間を共有する運動です。江戸時代にも、俳諧を読むためのサロンである“連”に人々が集う活動が起こりました。ここで北山さんは、1970年代にルクセンブルクの建築家レオン・クリエが描いた「都市再生理念」というドローイングを紹介しました。「ここに描かれているのは、経済活動を支える均質な都市空間の中に点在する、共同体を支える建築空間。彼が主張する通り、これからの都市では、共同性を生み出す空間装置こそが重要」と説明を加えます。北山さんのお考えでは、この“共同性を生み出す空間装置”とは、まさに“みんなの家”。「なんとなく集まって一緒にいられる仲間の存在を生み出す“みんなの家”こそが、次の時代の都市をつくる」という、本塾の活動冥利に尽きるコメントで、今回の講演は締め括られました。
岩永 薫