講座A 特別講座「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に向けて」

2012年09月03日

日時:2012年 8月 5日(日)14:00~16:00

ゲスト:乾久美子氏(建築家)
藤本壮介氏(建築家)
平田晃久氏(建築家)
畠山直哉氏(写真家)

特別ゲスト:多木陽介氏(演出家、アーティスト)

始めに、伊東塾長から挨拶がありました。
「昨年、ビエンナーレにおける日本館の審査があり、我々の提案『ここに、建築は、可能か』が採択され、
現在はビエンナーレの準備の真っ最中にありますが、本日はそのプロジェクトの報告をさせていただきます。」

 

1)概説

伊東塾長は「ここに、建築は、可能か」というテーマについて、
「被災地に建築は可能か、被災地でこそ可能な建築があるのではないか、という想いがありました。
プロジェクト体制として、乾久美子さん、藤本壮介さん、平田晃久さん3名の建築家によるチームでスタートしました。」と語りました。

ビエンナーレに応募した当初の展示アイデア

伊東塾長の解説によると、展示の概要として、当初は日本館の前庭あたりに<みんなの家>、展示ブース入り口に<震災後の写真>
昨年夏から約1年間の<スタディの記録>、<復興してゆく震災地の写真>という内容を考えており、
特に<みんなの家>については、当初、この展示で制作した家を現地(陸前高田市)に移設することを考えていたとのこと。

しかし、それでは、2013年春頃完成となってしまい、遅すぎるという判断と、展示のためのアイデアではなく、
一日も早く現地で作る必要があるという思いから、現地での完成を目指してスタートすることになりました。

震災の約一ヶ月後(撮影:畠山直哉)

 

2)「みんなの家」スタディ案

 

 

「当初、三者三様のいろんなアイデアが出されました。まだ現地に行ったイメージだけで、何かをつくらなければいけない・・という状況でしたが、
次の進め方として、ある程度一つの案をべースにして、壊すのでなく、手を加え、修正してゆくことを提案しました。」と、伊東塾長が解説しました。

3)敷地の変更

当初の候補地から、陸前高田の中心部をやや俯瞰して眺めることができる場所に敷地が変更となり、
2012年1月26日、再び陸前高田を訪れました。このとき、「みんなの家」の管理者となる菅原みき子さんは、
すでに新しい敷地の隣にテントを設営し、支援活動を始めていました。

「この敷地が、陸前高田を俯瞰し、全体を考えることができる場所であったことから、
狭い敷地内で考えていたことから、町全体を考えるようになった。」と平田晃久氏は語りました。
4)再び陸前高田へ

「ここにきて、皆さんの案が集約されてきた」と伊東塾長は語り、いくつもの丸太の柱を垂直に立てたプランを共有事項として進めることになりました。
そして、2012年2月26日、ようやくまとまってきた案を持参し、再び陸前高田を訪れました。

5)ビエンナーレの展示について

 

 

会場に持ち込まれたビエンナーレ日本館会場の展示の模型と、陸前高田のみんなの家の模型

6)まとめ

最後に、参加したゲストからのコメントをいただきました。

藤本壮介氏「どこにもない建築、どの時代にも、スタイルにも属していないが、ある普遍にふれているのではないか。
敷地に自然にわきあがってきたような建築が生まれた。人が集まる時に自然に、建築が必要とされていた。」

乾久美子氏「今の敷地を見てから、個人の視点ではなく、自然に全体の視点というものを考えながら仕事ができた。
どうすれば人々のすばらしいつながりをひろげてゆける空間がつくれるかを考える機会となった。」

多木陽介氏「避難所で人があつまるという原初的な活動に、どのような空間が必要かという着眼点に興味をもった。
物質的な建築空間だけでなく、人のつながりも含めた『透明な建築』をつくられたのではないだろうか。」

伊東塾長「ここに建築は可能か、ここだから建築が可能かもしれない・・と考えた。震災後の自然に対する謙虚さや、
現地での対話というプロセスの中でつくられたの特徴的。被災する人が、心をうごかされる建築になるかどうかが問われている。」

7)本講座を通して学んだこと

今回の講演では、建築という分野を超えて「ものづくり」における、とても深い部分を学ぶことができたように感じています。

伊東塾長自身が、震災地での様々な関わりを通して、建築家個人の作風や形態へのこだわりから一旦離れる必要があるという試行錯誤を踏んだ上で、
時間をかけ、あきらめずに、具体的なデザイン手法を模索し続けた結果として本発表内容を提示されるに至った点に感銘を受けました。

また、震災地の人々自身が、「復興」という可能性を少しでも実現したいという想いを持っていると感じました。

本プロジェクトチームの方々は、被災地に何度も足を運び、スタディを繰り返し、
現地の人々に潜在していたビジョンと作り手のビジョンが融合したことが重要な転機であった、とコメントされています。

まさに現地の想いと作り手の想いが、今回のデザイン手法に導かれ、その地から立ち上がるかのような建築へ向かっていった、
というプロセスを直に伺え、とても貴重な機会を頂いたと思いました。

また伊東塾長が、本プロジェクトを検討されている時に、「先が見えないことが、ものづくりにとって最も創造的である」という考えがあったこと、
最後に「今後、この建築が、現地の人々に本当に受け入れられていくかどうかが問われている」と話されたことが印象に残りました。

近清武