公開講座 中村桂子「人間は生きものという視点でつくる社会」

2015年04月15日

2015年3月14日、恵比寿スタジオにて会員公開講座が開かれました。今回講師としてお招きしたのは、JT生命誌研究館館長の中村桂子さんです。中村さんは、はじめに「人間は自然の一部である」ということを主張した上で、社会は、そして人間はどう在るべきか、というお話をして下さいました。
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中村さんは、3.11の東日本大震災を経て、今世の中は変わらなければならないと伝えます。「地震、津波」「原発事故」「東北という地域」という視点から、それぞれ「自然との向き合い方」「科学技術のあり方」「近代文明とは」という点を考え直さなければなりません。自然の大きな力の前で、私達は自然と向き合えていたのでしょうか?
震災に関する番組を見ていても、技術者の言葉はあまり響きません。それに対して東北の漁師の方へのインタビューでは「海を憎んでもしかたがない。我々は海で生きているんだ」という言葉が出るし、また農家の方になぜ今でもお米を作っているのかを聞けば、「今年もツバメが来るからだ」と答えます。泥がなければ、ツバメが巣を作れないのです。私達は東京のほうが進んでいる、東北は遅れていると考えてしまいがちなところがありますが、中村さんは東北から学ぶべきことが明らかになったと言います。
生命誌絵巻
協力:団まりな
絵 :橋本律子

中村さんは「人間は生きものであり、自然の一部である」という意味を「生命誌絵巻」で語ります。第一に地球には多種多様な生物がいることが示されており、第二にすべての生き物の祖先は1つだということ。それは38億年前の海にいた一つの細胞ということです。第三に、すべての生物が同じ距離に配置されていることです。つまり、すべての生物が38億年の歴史をその体の中に抱えている、38億年の歴史がなければ存在しません。第四は最も大事なこと、この中に人間がいるということです。これが「人間は生きもの」という意味なのです。
「地球に優しく」という言葉に代表されるように、近代文明においては人間が絵巻の外にいる存在として考えられているとしか思えません。人間が自然の一部であることを今一度確認するために、中村さんは3つの例を挙げます。

まず、ナミアゲハという蝶の幼虫は柑橘類の葉しか食べません。母蝶がその葉を判別して正確に産卵するのは前脚に秘密があります。前脚で葉を叩き、感覚毛で成分を探ります。私達人間は舌で味を感じますが、私達の味蕾という細胞は、実は蝶のこの細胞と同じ構造をしています。人と蝶はまさに仲間なのです。
次にヒトゲノムを例に挙げます。細胞内のDNAの全てをゲノムといいます。ヒトゲノムはATGCという単位が32億個並んでいます。その中に、昔感染したウィルスDNAやくり返しなどふしぎな配列が50%もあります。しかも私達が生まれ育つ上で重要な胎盤のタンパク質を作る遺伝子が、そのウィルスDNAであることがわかりました。奇妙な感じですが、我々の体ではこんなことが起きているのです。
もう一例は、バクテリアです。抗菌が流行っている時代ですが、無菌のマウスを作ると一日たりとも生きていけません。子宮の中の赤ちゃんは完全な無菌ですが、生まれた瞬間に体に大腸菌が入り、続いて一週間の間に様々なバクテリアが入ってきます。「わたし」という存在を考えるとき、私達はそれらの菌を考慮していませんが、実はバクテリアがなければ生活していけません。こういう存在を含めてヒトメタゲノムと呼んでいますが、これらの細菌の様子は生活や環境で決まってくるものであり、それが健康に大きく影響します。これも、人間が自然の一部であると考える例でしょう。

近代文明社会は、人間が金融市場原理、科学技術というシステムの内だけで完結しています。しかし、人間が生き物だということは変えようのない事実ですので、背後に自然、生命があることを考えないシステムは成り立たないはずです。科学技術や経済を否定するのでなく、新しいシステムを考えようという提案です。大森荘蔵先生は、一人ひとりが「世界観」を持つことが大切だと語り、私達が生き物であることを基本に置く世界観と近代文明の世界観を対比して考えるようにと言っています。
科学文明の世界観は、機械論的世界観です。ガリレイは「自然は数学で書かれている」と言い、ベーコンは「自然は操作できる」。デカルトは、「人間を含め、生き物は皆機械である」。ニュートンは、「粒子レベルで考えれば予測ができる」とそれぞれ考えました。彼らは科学技術の発展には大きな貢献をしましたが、その世界観のままでよいのでしょうか。
太古の生命の時代、アミニズム的世界においては自然と人とが交じり合っていました。西洋を見ると、ギリシャでは理性の時代として社会が進んでゆきますが、中世キリスト教世界ではそこから神が絶対の存在となり、人が自然を支配するようになります。さらに近代に入ると、科学技術の発達により神は追い出され、代わりに人間が支配者になり、自然を人と引き離して、間に都市や制度に代表される人工をつくっていきました。

そこで中村さんが提案するのは、自然・人・人工物が共生する新しい生命の世界です。人工を否定するのではなく、自然と人が一体であることを自覚した上で人工をつくっていく社会ができないだろうか、と問いかけます。
考え方はそう簡単に変わらないように思われがちですが、実際に考え方が変わった事例があると指摘します。それはルネサンス期のことです。塩野七生さんの説によれば、中世においては、教会という権力が神様を笠に着て人々を支配していました。その頃、聖書も説教もラテン語で行われていましたが、聖人のフランチェスコはそれらを全てイタリア語に訳し、民衆が自ら理解できるようにしました。またフリードリヒ二世は全てが宗教で考えられるわけではないということを指摘しました。彼らの活躍によって、民衆は教会という権力から脱却し、人間は物を自分で考えられるようになりました。そういう意味で神から開放され、人間復興したというのがルネサンスであったのです。
だとすれば、科学技術万能から脱却するためには、科学技術を相対化して、みんなで情報を共有して、生き物としての人間を復興できないだろうか。中村さんはこれを第二のルネサンスと呼びます。
科学者は、花を細胞や遺伝子レベルまで分解して見てしまいますが、同時に人間として「お花ってきれいだね」と思う気持ちも持っています。どんな科学者であろうと、日常では普段そうあるはずです。科学者としての姿勢と、日常生活者としての姿勢。その二つを一体として持つ必要があります。単純に科学技術が悪いと決めつけるのではなく、科学を考える人ひとりひとりがそうした生命論的世界観を持つことを呼びかけました。
蟲愛づる姫
中村さんは、堤中納言物語の虫愛づる姫君に倣い、「愛づる」という言葉を大事にしているそうです。彼女は男の子たちに虫を集めさせては、手の上でかわいがります。両親や侍女には叱られても「見かけがどうあれ、一生懸命生きている姿を見ると、かわいらしいと思いませんか」と語りかけます。それが「愛づる」ということなのです。これはある意味では科学の本質、自然の本質を見ていると言えます。この日本の自然の中でこういうお姫様が生まれ、日本の文化が生まれ、それをベースとして科学技術や社会をつくっていけたら、という希望を伝え、講義は締めくくられました。
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伊東塾長との質疑の時間では、まず自分が人間であるということを自覚する科学者はいるのか、という話になりました。中村さんは、日常的にお話をする科学者は実はほとんど皆そうなのだと答えます。ただしお金がなければ仕事ができないので、金融市場主義経済の中では流されざるを得ず、表面的には自覚していないように見えてしまう。この矛盾をどう解決すればいいのかが悩みです。伊東塾長は震災の復興計画への提案が受け入れられないのも同じ原理だと指摘しました。お金が動く方向に事業が進んでしまい、誰のためにもなっていないものにお金が使われてしまう問題が起きています。
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伊東塾長は昨年末に入院していたときの体験を語りました。身体のどの場所にウィルスが入ったのか発見するために毎日検査をしていたけれども、どこにも悪いところがない。すると医者たちは意地になって探そうとして、患者という人間の治療というよりも、菌を発見することが目的化されていたと話します。それはとても非人間的で、20世紀的な医学に疑問を持ちました。科学技術は緻密にできたシステムですが、人間にとってはたまりません。
現代の社会では曖昧さが排除されがちですが、そういう不確定要素があった方が豊かな社会だと中村さんは仰います。「想定外」という言葉は完全に機械論的世界観の言葉です。逆に生命というのは、思いがけないこと、手のかかることの連続です。人間の社会にまで機械的な能率を求めてしまっては、様々な喜びを見失ってしまいます。
現代都市の中の建築は、外から閉ざすようにつくられ、環境を人工的に制御しやすくなっています。しかしながら元来日本の建築はもっと外に開いていたわけですから、自然に向かって開いた方が人間は適応できるはずです。曖昧で複雑な自然をシミュレーションする技術も用いながら、四季を愛でられるような生活を取り戻せるでしょう。縄文回帰でなく新しいステップとして、そうした住みやすい建築がつくられていくことが目指されます。

生命誌と建築という異なる分野ですが、未来の社会をつくる科学者という立場から共に深く考えることのできる大変有意義な時間でした。お忙しい中講義をしてくださった中村さん、ならびにご清聴いただいた参加者の皆様に心より御礼申し上げます。

生沼幸司