講座A 第1回開講式「建築ってなんだろう」
5月19日、神谷町スタジオにて、今年度の講座Aがスタートしました。
本講座では、建築外の様々な分野から講師を招き、建築の外側から現代建築の可能性や問題点を探ります。
記念すべき初回講義は、当塾の塾長・伊東豊雄先生による「建築ってなんだろう」をテーマとしたレクチャーを行いました。
昨年の3.11以降、伊東先生が自問自答されてきた非常に難しい問題を取り上げ、現代建築が前提としてきた近代主義の問題点、
そして被災地での活動を通して見えてきた今後の建築の在り方について、お話がありました。
昨年の3.11以降、伊東先生が自問自答されてきた非常に難しい問題を取り上げ、現代建築が前提としてきた近代主義の問題点、
そして被災地での活動を通して見えてきた今後の建築の在り方について、お話がありました。
まずは、現代建築が前提とする近代主義思想について。その昔、家には人が住むための「人のすみか」と、
神を祀るための「神のやかた」の2つがありました。西洋の歴史では、建築家の仕事は様式を用いて
「神のやかた」を設計することであり、「人のすみか」は建築家の手によらずに、
気候などの厳しい自然環境に対応して、実用性を重視して建てられていました。
時とともに2つの家の区別はなくなってゆき、建築家は「人のすみか」をも手掛けるようになりました。
近代以降、建築家の仕事は「外部に対して、内部をつくりだすこと」になりました。
ここで重要となるのが、デカルトの唱えた、自我の発見です。人間を個として捉えて自然から切り離し、
市民社会における経済活動を優先するために個が分化し、人間や自然を機械のように取り扱う。
その結果、建築家は混沌とした自然の一部を切り取り、そこの記憶を消し去り、抽象的な空間とした上で、建築を設計するようになりました。
神を祀るための「神のやかた」の2つがありました。西洋の歴史では、建築家の仕事は様式を用いて
「神のやかた」を設計することであり、「人のすみか」は建築家の手によらずに、
気候などの厳しい自然環境に対応して、実用性を重視して建てられていました。
時とともに2つの家の区別はなくなってゆき、建築家は「人のすみか」をも手掛けるようになりました。
近代以降、建築家の仕事は「外部に対して、内部をつくりだすこと」になりました。
ここで重要となるのが、デカルトの唱えた、自我の発見です。人間を個として捉えて自然から切り離し、
市民社会における経済活動を優先するために個が分化し、人間や自然を機械のように取り扱う。
その結果、建築家は混沌とした自然の一部を切り取り、そこの記憶を消し去り、抽象的な空間とした上で、建築を設計するようになりました。
ここで、伊東先生が映し出されたのは被災地の仮設住宅の写真。工業生産による均質な空間、簡潔な形態、そして外部と切り離れた環境。
まさに、近代建築の縮図であることが分かります。
そして、仮設住宅での暮らしを余儀なくされた東北の人々はこうした環境を嫌い、庇や緑のある、自然と共存する暮らしを求めています。
自然から切り離された、抽象的な空間を良しとする近代主義の思想は、東北の人たちには受け入れられない。
こうした状況の中で、現状の仮設住宅を批判することはいくらでもできますが、それでは何も問題は解決されてゆきません。
批判するのではなく、現地で新たな仮設建築の在り方を提案していこう。こういったスタンスのもと、伊東先生は被災地での活動を展開してゆきました。
今回の発表では、現在進行中のプロジェクトも含め、これまで手がけてきた「みんなの家」が紹介されました。
まさに、近代建築の縮図であることが分かります。
そして、仮設住宅での暮らしを余儀なくされた東北の人々はこうした環境を嫌い、庇や緑のある、自然と共存する暮らしを求めています。
自然から切り離された、抽象的な空間を良しとする近代主義の思想は、東北の人たちには受け入れられない。
こうした状況の中で、現状の仮設住宅を批判することはいくらでもできますが、それでは何も問題は解決されてゆきません。
批判するのではなく、現地で新たな仮設建築の在り方を提案していこう。こういったスタンスのもと、伊東先生は被災地での活動を展開してゆきました。
今回の発表では、現在進行中のプロジェクトも含め、これまで手がけてきた「みんなの家」が紹介されました。
まず、宮城県仙台市宮城野区に建てられた「みんなの家」です。仮設住宅が50戸以上集まると、集会場がつくられることとなっています。
しかし、宮城野地区の既存の集会場は人々が話す場所もなく、うまく機能していない状態でした。
そこでその隣に、新たな集会場として「みんなの家」が計画されました。
住民の方々の意見を聞き、それを受けて模型を制作し、提案するといったプロセスを経て、設計が進められました。
しかし、宮城野地区の既存の集会場は人々が話す場所もなく、うまく機能していない状態でした。
そこでその隣に、新たな集会場として「みんなの家」が計画されました。
住民の方々の意見を聞き、それを受けて模型を制作し、提案するといったプロセスを経て、設計が進められました。
こうしてできあがった「みんなの家」は、12坪の木造建築で小さい建築ですが、住民の方々の思いがつまった建築となりました。
「自分の家より、みんなの家にいる時間の方が長い」という声も多く聞かれ、おしゃべりをしたり、ワークショップが行われたり、
花壇が造られたりといったように、常に人々で賑わう場所となりました。
また、伊東先生がコミッショナーとして関わっているくまもとアートポリスの繋がりで、遠く離れた熊本県から資材が提供され、
遠く離れた熊本と宮城との間で交流が生まれました。搬出が終わった後も、熊本から様々な物資が送られているそうです。
遠く離れた熊本と宮城との間で交流が生まれました。搬出が終わった後も、熊本から様々な物資が送られているそうです。
このように、「みんなの家」を建てる過程で次々とストーリーが生み出され、竣工後もここを起点として、様々な活動が展開されています。
2番目に計画されたのが、「釜石商店街のみんなの家」です。
この商店街は岩手県釜石市の中心地に位置し、津波により1階にある店舗部分の大部分が全壊する、という甚大な被害を受けました。
こうした厳しい状況の中でも、商店街を再興させ、ふたたびこの地で商売をしたい、という方が多くいらっしゃいます。
「釜石商店街のみんなの家」は、昨年度の伊東建築塾の若手建築家養成講座の塾生らが中心となり、復興を目指す地元の方々と協力しながら、
伊東豊雄建築設計事務所と共に計画を進めてゆきました。室内に設置する家具も、ワークショップを開催して手作りで制作しました。
そして間もなく、竣工を迎える予定です。(最新の進捗状況は、建築家養成講座のブログからご覧いただけます。)
他にも、現在計画中の二つの「みんなの家」の紹介がありました。
どちらのプロジェクトも、地元の人をはじめ多く方とコラボレーションしながら作業が進められています。
さらに、実際にできあがった「みんなの家」を見て協賛を申し出る企業が増えているそうで、今後も様々な「みんなの家」が増えてゆくことが期待されます。
こういった被災地での活動を継続させながら、伊東先生は「建築ってなんだろう」と、常に自分に問い続けていらっしゃいます。
被災地をベースに、これからの建築の可能性について考えてゆくことができるのではないだろうか。そうおっしゃって、講演会は終了となりました。
本日の講義では、被災地に建てられた「みんなの家」がどれも生活感にあふれ、その場所ごとに全く違う性格の建築となっていることが非常に印象的でした。
そこには、抽象的で均質な現代建築とは違う、新たな建築の姿が示されているように感じました。
今後建築はどのように変わってゆくのか、これから一年間の講義を通して、じっくり考えてみたいと思います。