講座B 第3回目「大震災から未来のまちを考える|仙台市の復興計画」

2012年06月12日

 

講座B 第3回目の講義のテーマは、「都市の再生、東北の復興」です。

講師に仙台市長・奥山恵美子さんをお招きし、3.11以降進められてきた仙台市の復興についてお話を伺いました。

奥山市長はせんだいメディアテークの初代館長でもあり、当塾の伊東塾長と縁のある方です。
平成21年の市長就任以降、政令指定都市初の女性市長として、その政治手腕を発揮されてきました。

復興を中心となって進めている奥山市長のお話を伺う非常に貴重な機会ということで、会場には塾生だけでなく、
被災地で活動をなさっている妹島和世さんや西沢立衛さん、北山恒さん、小嶋一浩さん、赤松佳珠子さん、平田晃久さんら建築家の方々を始め、
写真家の畠山直哉さんなど大勢の方々がおいでになりました。

まずは、東日本大震災の被害に関して。仙台市では、震災の直接的な被害により797名の方が亡くなりました。
関連死も含めると死亡者数は1000人に達すると言われ、第二次世界大戦の仙台空襲に次ぐ大惨事となりました。
人的被害のみならず、仙台平野に津波が押し寄せたため、浸水被害も広範囲に及びました。
そして道路や鉄道、水道、電気といったインフラ設備が断たれ、都市機能は完全に麻痺しました。
スーパーは3、4時間並ばなければ店に入ることすら出来ず、中に入っても目当ての商品が手に入らないことも多々ありました。
また、全国各地から給水支援隊が駆けつけましたが、それでも市民1万人に対して給水車1台という状況で、水を求めて長蛇の列ができました。
こうした被災状況をいかにリアリティをもって想像できるか。
便利な生活に慣れきってしまっている私たちが、今後災害に備えてゆく上で常に心に留めておかねばならない課題です。

次に、被災後の住まいの問題についてお話がありました。震災直後、仙台市では全人口の約1割にあたる、
10万人もの人々がぼ避難所生活を余儀なくされました。その際予想外だったのが、仙台市民ではない人々の多さです。
仕事や旅行で来た人、見舞いに訪れた人・・・。普段から付き合いのない、全くの他人同士が極限状態をともにすることとなり、
避難所では様々な問題が生じました。そして、市が最も苦労したのが避難所の閉鎖です。インフラがひと通り復旧したら即閉鎖、という訳にはいきません。
避難所の環境は劣悪だと言われていますが、独りで生活することに不安を抱えるお年寄りなど、帰宅を望まない人々は意外と多いのです。
市役所ではそうした人々の一人一人に事情を聞き、帰宅の手助けをしました。こうして震災発生から4ヶ月半を経て、7月31日ようやく避難所の全閉鎖が完了しました。

その後は応急仮設住宅へと移り、最終的な住まいの確保へと進みますが、そこで大きな課題となるのが集団移転の問題です。
防災集団移転促進事業により、仙台市では約1,700世帯が移転されることとなりました。戦後日本でこれほど大規模な集団移転の事例はなく、
事業の遂行は困難を極めることが予測されます。被災住民の意向を充分に把握し、国や県とも協議してゆく必要があります。

そして、今後の復興計画に関して。例えば、環境の良い敷地に仮設住宅を建ててしまうと、
後に災害復興公営住宅の建設用地に充てられなくなってしまうといったように、復興計画では長期的な視野を持つことが重要です。
そのため、仙台市では震災から1ヶ月も経たない初期の段階で基本方針を立て、説明会や意見交換会を通して市民の意見を取り入れながら、
復興計画を組み立ててきました。先ほどお話のあった住宅確保から地盤工事、産業復興まで、取り組むべき課題は山積みであり、
その全てにおいて完璧な対応をすることはほぼ不可能です。
数十年後、最終的に皆が良かったと納得できるような復興を目指したい、と奥山市長は胸の内を語られました。

 

重たいテーマの話が続きましたが、講演の最後には、震災復興の中で発揮されている仙台の「受援力」が話題となりました。
日本全国から様々な支援の申出があった際に、それを受け入れる体制が整っていることは非常に重要です。
伊東塾長が被災地で最初に取り組んだ宮城野地区の「みんなの家」も、受援力がある仙台だからこそ実現したプロジェクトです。
そういった周囲の協力に支えられながら、震災を経て、仙台はより力強く進化しています。
奥山市長は「今後の仙台市の復興まちづくりにご期待ください」と力強くおっしゃって、講演会は終了となりました。

今回の講演会を通して、被災地の復興はきれいごとばかりではなく、様々な矛盾や葛藤を抱えながら進められていることを知りました。
とくに印象的だったのは、復興を進める上で日本の法律には限界があるというご指摘です。
現行の規定では全国一律な支援が重視されるため、各地域の気候や風土に応じた応急仮設住宅を建設することはできません。
東日本大震災の教訓を生かし、国や県の根本的な思想を変えてゆく必要があると感じました。