講座A「大震災から未来のまちを考える―陸前高田市のまちづくり」

2012年11月08日

11月2日に開催した講座Aは、講師として菅原みき子さんにお越しいただきました。
菅原さんは、陸前高田市在住の民間人として、現地で精力的に復興活動を行っていらっしゃいます。そして、伊東塾長がコミッショナーを務め、建築家の乾久美子さん、藤本壮介さん、平田晃久さんと写真家の畠山直哉さんの協同作業によってつくられた「みんなの家」の管理人となる方でもいらっしゃいます。

今回の講義は「大震災から未来のまちを考える―陸前高田市のまちづくり」と題し、3.11以降、菅原さんが展開されてきた活動内容を紹介していただくとともに、伊東塾長、乾さん、藤本さん、平田さん、畠山さんを交えて「みんなの家」のコンセプトや設計プロセスに関するお話を伺いました。

「みんなの家」に携わった6人が一堂に会する貴重な機会となったため、会場には難波和彦さん、長谷川逸子さん、工藤和美さん、石上純也さんといった多くの建築家の方々がいらっしゃいました。

昨年3月11日の大震災が発生した際、菅原さんは陸前高田のご自宅にいらっしゃいました。すぐに息子一家と母親のもとを訪れて安否を確認した後、菅原さんは入院している知人が心配になり、ひとり近隣の県立病院に向かいました。もうすぐ津波がくるとの情報を得て、病院には患者やスタッフだけでなく、近隣住民が集まっており、みなで屋上へと避難しました。そしてそこで菅原さんは、津波が町を飲み込んでゆく光景を目の当たりにしました。まるで映画のワンシーンのようで、とても現実の出来事とは信じられなかったそうです。

津波が引いた後は、紙おむつやゴミ袋を巻いて暖をとり、厳しい寒さの中で一晩をしのぎました。そして翌日、自衛隊のヘリに救助された際、津波によって何もかもなくなってしまった高田の町を見て、大変なショックを受けました。

その後、自宅を失った菅原さんは近くの体育館での避難所生活を余儀なくされ、自らも避難民でありながら、積極的に避難所の運営に携わりました。みなが家族や家を失い、極限状態にある中で、菅原さんは「こんな時だからこそ笑う必要がある」と考え、常に笑顔で人と接しましたが、それに対して、「こんな時に笑うなんて不謹慎だ」と怒る人もいたそうです。

また、コミュニケーションを求める人もいれば、そうでない人もいます。菅原さんは、それぞれ違う感性を持った1000人以上の人々が一つの場所で生活し、揉めることなく過ごすためにはどうしたら良いかを考えながら、日々支援活動に励みました。

5ヶ月間の避難所生活の後、仮設住宅の準備が整い、避難所の仲間は解散し、みなばらばらに生活することになりました。菅原さんは次男とともに山奥の仮設住宅に移りましたが、そこでもご飯を配ってまわったり、近所の人を誘ってバーベキューをしたりと、みなが楽しく生活できるよう、積極的に活動しました。

さらに、「エコたわし」の制作・販売を始めたことで、仮設住宅の人々が結束してゆきました。ふさぎ込んでいた人々も、「やることがある」と生き甲斐を感じられるようになり、徐々に明るくなっていったそうです。

しかし、行政が集会所を設置するのは100世帯以上の仮設住宅が集まっている場合に限られるために、菅原さんが住む30世帯ほどの仮設住宅には、住民が集うための場所が用意されませんでした。

そこで菅原さんは、同じ地区に住む仮設住宅の住民が集まることができ、さらに他の仮設住宅の人々とも交流ができる場所が必要だと考え、「げん氣ハウス」というテントハウスの運営を開始しました。その以後、今日に至るまで、菅原さんは日本全国からの支援に支えられながら、現地で精力的に支援活動を続けています。

ここで、伊東塾長より、ヴェネチア・ビエンナーレで展示された「みんなの家」プロジェクトがどういった経緯で菅原さんの活動と結び付き、陸前高田の「みんなの家」が実現するに至ったのか、説明がありました。

当初、「みんなの家」はヴェネチア・ビエンナーレの日本館の前庭に建設し、11月の展示終了後に被災地に移転する計画でしたが、それでは竣工が遅くなってしまうことから、始めから被災地に建設し、ビエンナーレではその設計プロセスを展示するよう、方針を変更しました。

しかし、資金を集めてもなかなか受け入れ先が見つからず、敷地選びは難航しました。そうした中で、2011年の11月下旬に、陸前高田の戸羽太市長に相談したところ、現地で活動を行っている菅原さんを紹介され、伊東塾長はすぐに会いに行きました。当時菅原さんは、自身が住む仮設住宅の近くにテントハウスを建てて活動しており、そこを「みんなの家」の敷地とすることで話が進みました。

ところが、翌年の1月に菅原さんから敷地を変更して欲しいとの連絡があり、伊東塾長と畠山さん、乾さん、藤本さん、平田さんは、再び陸前高田に向かいました。そしてこの訪問が、「みんなの家」プロジェクトの大きな転機となりました。

菅原さんに紹介された新しい敷地は、それまでの山奥にある敷地とは違い、山のふもとに位置し、何もなくなった陸前高田の市街地と海とを一望することができる場所でした。既に菅原さんはそこにテントを張って「げん氣ハウス」の活動を始めており、その日はテントの中で菅原さんから被災時の様子や仮設住宅の現状を聞き、長時間話し合いました。

乾さん、藤本さん、平田さんの三人は、この日の経験を境に、はじめてみなで建築的なイメージを共有し、リアリティをもって設計できるようになった、と語りました。何より、菅原さんが本能的に見つけ出した敷地に、様々な場所やもの、人を結びつけることができる可能性を感じたそうです。

以後、設計は着々と進められ、最終的に高田の町を見下ろす、まるで櫓(やぐら)のような「みんなの家」の設計案が完成しました。今年8月に建設が開始され、約5ヶ月の工期を経て、今月の18日には竣工式を迎える予定となっています。会場では竣工間近の「みんなの家」の写真が紹介され、竣工してもそれが完成形ではなく、今後活用される中で現地の人々によって手が加えられ、時間とともに変化してゆくであろう、「みんなの家」の魅力が語られました。

最後の質疑応答では、乾さん、藤本さん、平田さんに対し、「みんなの家」を共同設計するに際して、それぞれ建築家としてどのような独自性をもって望んだのか、会場から質問が寄せられました。

乾さんは、敷地の状況を見るときのセンサーが個性であり、「三人のセンサーを働かせることで多くの物事に反応できたと思う」と応えられました。

藤本さんは、「敷地の独自性を前に、自分の独自性を考えることがなくなった」と振り返り、「現地の人々や敷地に導かれるように設計した」と語られました。

そして平田さんは、「その人が関わることで、それまで見えなかったものが、見えるようになること」が建築家の個性だと考えているけれど、それは一歩間違うと周りの人々にとって受け入れ難いものになってしまうため、「自分の全存在をかけて挑まなければならない」と設計に対する思いを述べられました。

また畠山さんは、建築家の独自性を表現する際によく使われる「スタイル(style)」という言葉が、「ペン先によって引かれる線」という本来の意味から離れて、繰り返し用いられる「パターン(pattern)」と混同されているのではないか、と指摘されました。

今回の講演では、震災の際には瞬時に過酷な判断をせねばならず、どうしても救うことの出来ない多くの命があったことを知りました。そうした体験を通して、「いつ死ぬか分からないのだから、楽しく生きよう」と心に決め、常に笑顔で活動する菅原さんの逞しい姿に、大変感銘を受けました。

そして、「みんなの家」が出来上がるまでのプロセスを通じて、建築家という職能、そして建築の在り方について改めて考えさせられました。間もなく竣工する「みんなの家」がどのように活用され、姿を変えてゆくのか、今後の展開が非常に楽しみです。