塾生限定講座「戦後モダニズムの建築から学ぶ|篠原一男の建築論」
2013年12月6日、恵比寿スタジオにて東京工業大学大学院教授の奥山信一先生を講師にお迎えし、「篠原一男の建築論」と題したレクチャーが行われました。
今回は、篠原一男についての概論と、篠原氏の社会に対する考え方についてお話いただきました。当日席上配布された奥山先生の『言葉と空間、そして住宅論と都市論とを架橋する思考のメカニズム』と題した論文でも詳細が説明されています。(スペインの雑誌『2G』における篠原一男特集のオリジナル原稿だそうです。)
はじめに、篠原氏の経歴の紹介がありました。
篠原氏は、1925年生まれ。東京物理学校(現在の理科大の前身)にて数学を専攻した後、東京医科歯科大にて助教授となるとともに、東工大にて建築を学び、1953年に最初の作品「久我山の家」を発表後、1997年に最後の作品「横浜港国際客船ターミナル設計競技案」まで約50年間、建築家としての創作活動を継続され、2006年逝去されました。
篠原氏は、自分自身で作品系列を次の4つに規定しています。
第1の様式: 日本の伝統との対応
第2の様式: 西欧モダニズムとの交感
第3の様式: 現代都市への眼差し
第4の様式: モダンネクスト
これらの様式系列に沿って、どのような作品が世に送り出されたのかについて、当時の時代状況を踏まえた上で説明がありました。主なものは次の通りです。
『から傘の家』、『白の家』、『未完の家』、『谷川さんの住宅』、『糸島の住宅』、『高圧線下の住宅』、『ハウスインヨコハマ』、『東工大百年記念館』
作品紹介に続いて、篠原氏の建築家としての活動を特徴づける言説表明についての説明がありました。篠原氏の言説表明は大きく2つに分けることができます。ひとつは時代を煽動するマニフェスト的側面に関するもので、もうひとつは自身の空間コンセプトを詩的に述べる側面です。日本の伝統と対応していた<第1の様式>の時代に、上記の前者に属する勇ましい発言が集中していたことが指摘されました。代表例としては下記です。
・住宅は芸術です。誤解や反発を承知の上でこのような発言をしなければならない地点にわたしたちは立っています(1962年)。
・住宅は美しくなければならない。空間には響きがなければならないと私は考えている(1962年)。
・虚構の空間を美しく演出したまえ(1964年)。
続いて、丹下健三氏および磯崎新氏と比較しながら、建築の意味を都市や国家との関係の中で論じることで、篠原氏の活動の社会的意義についての説明をされました。
丹下氏は、建築を、人間・住宅・都市・国家という直線的なヒエラルキーの一部として捉えていましたが、篠原氏においては、丹下氏のような明快なヒエラルキーは否定され、社会的な課題を直線的に引き受ける建物と、メタ概念を背負う建築とは別物として捉えられていたと言います。そして後者の建築は住宅でこそ実現可能であるという思想が、篠原氏を当時の建築界で際立たせていた。「住宅は芸術である」という篠原氏の代名詞となったマニフェストの背景には、そうした社会的な意味が込められていたと奥山先生は言います。
この他にも、篠原氏が言う「虚構性」についてのお話もありました。これは、メタ概念としての建築を考える際に最も重要なキーワードであり、個人住宅を主要な題材としていた篠原氏にとって、その題材を社会化する上で必須の概念であったとのことです。
次いで伊東塾長から、篠原氏との交流などについてのお話に移りました。
「かつて大学祭で篠原氏のレクチャーを聴いた。シャイな人という印象だった。1970年代にレクチャーを聴きに行くと超満員だった。ひとつ言葉を発する度に、会場にいる全員がうなずくような一体感があった。篠原氏の『上原通りの住宅』に招待され、私が設計した『中野本町の家』に来ていただいたこともある。・・・・・60年代後半は社会が変わってゆく時代であり、メタボリズムや東京オリンピックの影が薄くなっていった時期だった。篠原氏の『白の家』の発表が1966年。60年代の建築が国家をめざすところから“個”へ向かうようになる。ここが自分の出発点だった。・・・・磯崎新氏や篠原一男氏の言説は、現代の妹島和世氏や藤本壮介氏に引き継がれている気がする。しかし、現在の私はそれを否定したい。3.11でフィクショナリティは現実に引き戻された。これまでのことを問い直したい。・・・・今年度の伊東塾では、菊竹氏の海上都市でなく、スカイハウスを見学した。前川國男氏の東京文化会館でなく自邸を観た。今回は「篠原一男の初期住宅」をテーマにして、『土間の家』のような本当に居心地のいい空間から、どのようなプロセスを経て『白の家』のような抽象性へ辿り着くことができたのかを考えたかった。」
これに対して奥山先生から、「篠原氏の初期の住宅は、ご自身が説明されているように土着的・農家的な空間の性格と、貴族的な空間の性格の双方の振れの中でその意味がつくられてきた。したがって『土間の家』から『白の家』への推移そのものが意味を持つのではなく、重要なことは『白の家』の抽象性の根底に潜む具体性を考えることではないか?また、作品についても言説についても排他的な志向の強い篠原氏の活動を、さまざまな状況との連関を迫られる現代社会ですべて肯定することは難しいが、篠原氏の仕事に関して、いまだに海外から問い合わせが頻繁にあり、時間を超えて受け継がれる魅力をもった建築家である。そうした篠原氏の魅力を、センチメンタルな水準を超えて追求していくことが重要ではないか?」とのお話がありました。お話の随所で、篠原氏は怖い先生であり、口は笑っても目は笑わない修行僧のような人。お酒が好きだが、お店に入っても自分では料理を取り分けたりしない人、ソーシャルダンスが好きな人など、様々なエピソードの紹介がありました。
年明けにセントルイスで篠原氏の展覧会が開催されるとともに、中国・上海の現代美術館でも、今年の4月半ばから大々的な個展が開催される予定で、オープニングの4月19日には、伊東塾長、坂本一成氏、長谷川逸子氏といったシノハラスクールとかつて呼ばれた国際的な建築家らによるシンポジウムが開催されるそうです。
今回の講座を通じて、篠原一男というユニークな建築家とその時代の一端を知ることができました。貴重なお話を聞かせて下さった奥山先生に感謝するとともに、改めて3.11以降の建築家について考える時間でもあったと思います。
塾生 大島正司