第3回子ども建築塾として「森山邸見学会」が行われました。
前回台風の影響によって中止になってから1ヶ月近く、やっと念願の森山邸に訪れることができました。設計者である西沢立衛さんが案内してくださり、森山邸が建ち上がるまでの話などをしてくださいました。
今回のボランティアは昭和女子大学、千葉工業大学、東京大学、東京理科大学、SFCの学生の皆様に行っていただきました。屋外講座という変則的なものでしたが、初めてのボランティアとは思えないほど、皆様的確に行動してくださいました。
初めて訪れた森山邸は、抱いていたイメージよりも心なしか大きかった気がします。おそらくそれは箱の隙間をぬって内側に入り込んだときに感じる3層目の高さのせいでしょう。
本当に居心地のよい空間で、スカスカかと思いきや、建物にしっかりと覆われている感覚があって、不思議な閉鎖感がありました。西沢立衛さんが話の中でもおっしゃられていましたが、意外と閉鎖的で、外から入ってくる人はそんなにいない。でも、近所のおばさんや顔見知りの人はそこを通り道として使っているそうです。一度完全に屋外に出ないと風呂にアクセスできないので、クライアントである森山さんは、風呂場から自室までいくのに、下着姿で屋外を横切るそうです。
森山邸は様々な機能が一つ一つ違った箱に収められ、それが完全に空間として分断されています。でもそれぞれの箱が関係性を持ちながら隣り合っているので、中庭は、「庭」というよりは「廊下」として機能しているかのようです。庭に雑然とおかれた洗濯機も、その廊下らしさを一段と強調していました。
森山邸のプランは妹島和世さんが「岐阜県営住宅ハイタウン」で行ったような個の自立を目指しているようでいて、少し違います。というのも「岐阜県営住宅ハイタウン」では家族という括りの中で個人を外部と直接繋げることにより家族からの自立を目指しています。その操作は家族という集合体の内部における関係性を劇的に変貌させています。しかし外部に対しては実はその関係性はさほど変わりません。家族という内側でその関係性を変えても、家族そのものを一括りにする装置として住宅が機能しているからです。
森山邸の場合、家族というもの、個人というものと外部との関わり方そのものに大きな変化を与えます。近隣の人々が自由に住宅の中を行き来できるというのは、地域に対する感覚をより穏やかなものにするのではないでしょうか。
前回のブログをアップしてからだいぶ間があいてしまいました。
今回は6月11日から13日にかけて、私たちが養成講座の受講者たちと一緒に釜石で行ったワークショップの話をしようと思います。
6月11日から13日にかけて、工学院大学の遠藤新さんの企画で、釜石市民と建築、都市計画の専門家たちがともにアイデアを出し合いながら、釜石の街をこれからどのように復興させていくかを話いました。鵜住処地区、東地区と二つの地区にわけ、それぞれをさらに「防災」「地域性」「産業」「居住」という4つのグループに分類しました。
他に関東学院大学や東北大学の小野田先生の研究室の学生たちなど、沢山の方々が集まり刺激的な体験ができました。ワークショップの合間をぬって実際に津波の被害が酷かった釜石の市街まで行ってきたのですが、いざ目の当たりにすると写真で受けた印象とは全く異なり、想定よりも絶望を煽るような光景でした。紋切り型の表現ですが、文字通り、自然の脅威を実感いたしました。
釜石にはNHKの取材陣もきており、そのとき知り合った藤島さんというまだ若い記者の方の話が大変印象深かったです。記者というだけあって、莫大な情報が見事に整理されていたのには驚きました。
ワークショップは、初日は調査、二日目は議論、最終日は提案、といった案配に進み、毎回終わりには各班の発表がありました。少ない時間の中で提示された案はどの班も魅力的なものばかりでした。
ここでは語り尽くせないくらい色々なことがありすぎて、最終日に釜石線というワンマン運転車両の座席に腰をおろしたときは、正直に言うと安堵の気持ちでいっぱいでした。
ここからは私が自らの班で体験したことをもとに、簡単な感想を記させていただきます。
私は計8つのチームのうち養成講座の吉岡さん、阿久根さん、山田さん等と同じ「東地区地域性」に割り当てられました。塾生含め、市民の方々も、私たちの班は非常に熱意溢れる人たちが多く、白熱した話し合いになりました。
地元の方々と話をしていくうちに気がついたのは、果たして「地域性」とはどのようなものなのか、誰も明確な答えをもっていないとうことです。釜石はラグビーが強い。釜石は海鮮が美味しい。そういった小さな事柄は地域性と呼ぶに足りるのか。結局一般的に言われている地域性というのは、そういった細かな事柄の集積をさすわけであり、それは多くの人にとって立派な地域性となり得るわけです。
しかし地域性というものを、そのような細かな要素を集積した結果できあがる大きなものと捉えた場合、それがなんなのかがはっきりしません。小さなものが集約するイメージを抱けないのです。
私が思うに、それは本来都市が担うべき役割だったのではないでしょうか。都市という一つの構成物が様々な小さな要素を吸収し、一つの形態として出来上がる。それは文字通り「形態」であり、それが都市独自の形を作り上げるわけです。しかし現代の都市はどこも東京化しているようで、果たしてその都市独自の形態があるかと言われると、何とも言えません。
作家の松山巖さんが「住み家殺人事件-建築論ノート-」という本の中で、高層ビルというのはその周辺の環境を吸い上げるシステムと称しています。本来は土地面積を何倍にも増大させるならば、それに比例して地価も安くなってしかるべきなのに、同じどころか頂上に近づくにつれ地価は高くなってゆく。それはつまり、高層ビルそのものというよりも、その内側にコアとして宿る昇降機が環境を吸い上げるシステムとして働いているのであり、それすなわち移動手段=インフラをさすのだと私は勝手に考えています。インフラストラクチャーが周辺環境を吸い上げるのならば、1960年代に都市のインフラが整備され、そのインフラを伝わって、地方都市はどこも東京化していきます。それは正確に言えば資本主義の都市計画に従うということですから、東京化するわけではありませんが、東京とインフラにより接続され、その市場の働きに生活パターンをあわせる必要が生じているわけですから、東京化と呼んでも差し支えないでしょう。
そうなってくるともはや地域性を通して、都市の形を論じることはできなくなってしまいます。地元の人たちが求めているものすら、東京人がイメージする観光地(リゾート地)となんの変わりもないのですから。
だったら私たちはいっそのことユートピアと貶されてもいいから、夢のような世界を描いてみるべきなのではないでしょうか。ArchigramやSuperstudioの時代のようなアンビルドな提案をする人はもはやいません。それは社会主義の崩壊や資本主義のあまりの強大さを前にして、その追求が全く無意義であるかのように語られるようになってしまったからでしょう。同時に、そのあまりにも破壊的な規模の提案は、もともとそこにあった「地域性」を破壊するということにポストモダン以降、懐疑的になったことも影響しています。
しかし地域性を語ることそのものが困難な現状、そういったゼロ(必ずしもゼロである必要性はないのですが)から、巨大なユートピアを提案することも必要ではないでしょうか。結局個人が都市を考えるとき、その先に個人が描く大きなユートピアは必ず存在しているはずですし、それが無ければわざわざ釜石まで行ってワークショップに参加する意味もありません。
そういった個人的なものを無駄だと思わずに、積極的に表出し、それを叩き台として市民の人たちと話し合うほうが、今ある手札から使えそうなものだけをかいつまんでいくような作業よりも、よっぽど未来に対しての可能性を秘めているのではないでしょうか。個人個人のユートピアが混ざり合い、一つの提案となったとき、本質的な釜石の地域性が見えてくると思います。
先日神谷町スタジオで第2回目の養成講座が行われました。初回には参加できなかったアメリカ帰りの高木智子さんもおこしになられ、よりいっそうにぎやかになったように思います。今回の講座は、太田浩史さんの講義の後に、塾生達が各自釜石に関して調査してきたことを発表しました。発表では、塾生の有志によって製作された釜石と鵜住居の模型が用いられました。
太田さんの講義はご自身が東京大学で行われている港町調査プロジェクトのことでした。これがとてもおもしろく、ポルトガルのLisbonやPortoなどの海辺の都市形態と、日本の今治等の都市形態とを比較し、そこにどのような相違点があるかを考察されていました。街全体の構成がどうなっているのか、またそこに新しい建築が一つできあがることによってどう変化するのか。その変化を他の都市と比較しながら考察したときに発見できる、都市の普遍的な構図には興味があります。
太田さんの話によるとPortoという街はもともと自動車インフラのための鉄橋だった「ドン・ルイス1世橋」を開放し、それをメトロと歩行者のためのものとしました。「ドン・ルイス1世橋」は1880年代の名作の一つで、鉄が構造体として信頼を得るようになったばかりの頃に設計されました。それ以前にもパクストンがロンドン万博で実現した「クリスタルパレス」や、アンリ・ラブルーストの「パリ国立図書館」等、鉄骨によって実現された作品は既に数多く存在していました。しかし1889年に開催されたパリ万博における「エッフェル塔」、そしてコンタマンによる「機会館」で、鉄の構造体としての可能性はさらなる広がりを見せます。そのような時代背景があったからなのか、この時代に設計された鉄骨構造は、その可能性を証明するかのように威厳ある体裁をしており、「ドン・ルイス1世橋」もその例に洩れません。
そんな美しい橋には、近代文明を象徴する車よりも、人間や列車の動きのほうがしっくりくるように思います。しかし、近代文明が車社会であることからも、それまで自動車インフラの要であった幹線をただ封鎖してしまうわけにもいきません。そこでPortoの街がすごいのは、そのためにわざわざ車の動線として、新たな橋をかけ、迂回するルートを作ったのです。
これはPortoの人々がいかにインフラストラクチャーを重要視しているかを示唆しています。現代都市はインフラによって支配されています。建築もその仕組みに組み込まれ、その中でのみ簡潔しながら生成されます。それほどまでにインフラがもつ拘束力は強い。日本の都市が街を開発しようと考えるとき、そこにインフラを変化させるという発想はありません。インフラによって区切られた街区の中をどうするかということばかりが考慮されます。それはインフラが不動なものだと信じ込んでしまっているからかもしれません。
講義の中で塾生の行武さんが、被災地復興に関して興味深い提案をされていました。それは津波がきたときに家そのものが浮くという提案で、水に浮くことによって移動できるというものです。実際、多くの戸建住宅が基礎から切り離されそのまま浮いている光景を目にしましたし、その屋根によじ上って助かった人たちもいるということを考えると、住宅が浮くという発想に新規性があるかどうかはわかりませんが、少なくともそれはインフラを考える一つのきっかけにはなるような気がします。というのもインフラとは都市における幹枝、住宅は葉という考え方に当てはめることができ、葉は枝から枯れ落ちたときその生命を失います。つまり現代の多くの住宅はインフラ抜きには自立できません。
ところが、バックミンスター・フラーが提唱した「ダイマクシオン・ハウス」のようにインフラフリーの建築は提案されてはいたのです。しかし[近代化=インフラの充実]という発想はいつの時代も変わらず、国土全体がインフラの波に飲み込まれて行きます。インフラの重要性は強く実感しますが、それに強く縛られている状況は果たして好ましいものでしょうか。インフラを否定するというよりは、どうやって現行のインフラをよりよいものに変えて行けるか、それを模索することは、建築を考えることと同義な気がします。
ついに伊東塾1回目の「子ども建築塾」が行われました。
全部で20名ほどのボランティアスタッフの学生の方々と、子ども達に保護者の皆様、見学者等、総勢80名ほどの方々が神谷町スタジオまでお越し下さいました。
1回目は子ども達が「自分の住みたい家」と題して造作した絵を、各自の自己紹介をふまえながら、見せ合いました。私も子ども達の絵は初めてみたのですが、非常に独創性に溢れたものが多い中に意外と現実的な案混じっていたりすると、不思議とそういったものはそれはそれで独創的に見えてしまいます。恐らく現実にそれが存在することを、より意識の中で具現化しやすいが為に、その不可思議さが際立つのでしょうか。
どの案も魅力的なものばかりで面白かった反面、ほぼ全ての子達が家というと壁があり屋根があり、窓がありという基本構成を忠実に守っていたことにもまた驚かされた気がします。なんならもっとそういった枠組みから脱却していてもよかったのかもしれませんが、しかしそういった基本を抑えていないものを果たして家と定義づけてといのかはわかりません。
これから子ども達は伊東塾で、空想の世界で作り上げた建築をいかに現実と調和させていくか、その道筋を学んで行くわけですが、空想を現実に落とし込む作業というのは基本に忠実になることではないような気がします。その基本概念というものすら打破するような現実を生み出すことは、空想をめげることなく蓄積し続ければ可能なのではないでしょうか。
少し支離滅裂な感想文になってしまいましたが、要約して言いたかったことは、元気な子ども達ばかりでしたので、これからの進展が楽しみだということです。
ついに伊東塾1回目の建築家養成講座が行われました。
今回は伊東事務所から古林さんがおこしになられ、釜石市についてのレクチャーを行いました。古林さんが実際に現地に行かれたときの話もしてくださったのですが、一つ興味深い写真と共に興味深い話をしてくださいました。
湾のすぐ近くに7階建ての幅広いマンションが2棟ならんで建っていたそうです。2棟は海を正面に、列になってならんでいました。そこは当然津波の来た場所なのですが、基礎がしっかりしていたのか、建物自体はほとんど無傷でそこに残っていたのですが、壁面の色合いの違いによって津波が何層まで到達したかが写真でも明らかにわかります。しかし色合いの差は、2つの棟によって歴然と異なります。手前の湾側の建物は5層くらいまで波が到達しており、ほんとうに10m近い波がきたことを物語っていますが、後ろの建物は2層〜3層の部分より上は変色しておりません。マンションに外接したベランダの手すりパネルが、それを証明するかのように、波が訪れた高さまでは、はがれ落ちていました。
古林さん曰く手前の建物が後ろの建物の堤防となり、津波の威力が軽減したとのことです。たった一つの建物に遮られるだけで、そこまで脅威が変化するというのは、津波の恐怖心を煽られ続けてきただけに少し意外な気もしました。
津波が想像を絶するほどの脅威であることは事実ですが、自然災害において絶対不動の障害物があることの重要性を再確認したような気がします。しかし、だからといって15m近い防波堤で海と陸を分断することしか方法はないのかというと、それも違う気がします。
東京大学の石川幹子さんが「津波よけ千年松山」という面白いプロジェクトを行っています。瓦礫の中から最新機器を用いて土だけを分離し抜き取って、それを用いて川縁に松林の生えた小高い丘を大量につくっていくというものです。これにより津波の威力は軽減され、かつ景観を破壊せずに(変貌はさせるが)新たな防波堤のシステムを構築できるということです。
このように街を津波から守ることと、都市形態を考慮することが、同時に平行線上で行われる必要があるのだと思わされます。
これから釜石を対象にプロジェクトを進めて行きますがみなさまよろしくお願いいたします。
今日は伊東さんと東京大学の太田浩史さんが神谷町スタジオにおこしになられ、スタッフ一同とこれから「伊東塾」でどのように活動していくかの会議を行いました。毎度このような著名な方々と席を共にしていると、なんだか自分のおかれている環境の贅沢さにも麻痺してきます。ただ必要以上に気張らず相手と接することができるようになったのは、自らにスタッフとしての自覚が明瞭に現れてきたからなのかもしれません。
前回に続きミーハーな人選ですが、ハンナ・アレントは「人間の条件」の中で、人間の行為を「労働」「仕事」「活動」という3つの要素に区分しています。「労働」とはマルクスのいうプロレタリアート。消費され、この世から一瞬で消え去るものを大量に生み出す行為です。「仕事」とはこの世にいつまでも存在し、世界の一部となるものを生み出す行為。建築家も彼女曰くこれに分類されます。
そして彼女が最も重要だとするのが「活動」。これはギリシャ時代のポリスによる政治のあり方からきています。これは簡略的に言ってしまえば公の場で人々が議論することでした。もちろん当時は人間に階級があり、「活動」に参加できるものはごくわずか。奴隷に市民権はありませんでした。しかし、現代は階級制度が消滅し、誰もが公の「活動」に参加できます。にもかかわらず人々はプライベートばかりを求めるように、そんな状況とは真逆の道を歩み始めました。もともとプライベートという言葉には「公が欠如している」という意味が込められています。プライベートになるということは、今の言葉でいえば社会性の欠如と見なされるわけです。
アレントは本著により、現代で失われてしまった「活動」を取り戻そうとしています。
しかし、考えてみると建築家は「仕事人」であると同時に、「活動家」でもあるのです。建築家に限らず、ものを創造する人ならば誰もが仕事と同時に活動を行うでしょうし、そうでなければなりません。しかしそのことに自覚的である人がどれだけいるか、いかに多くの建築家が「仕事人」であることに徹し、「活動家」であることを忘却しようとしているか。
伊東塾で行われる「活動」的議論が、今後はもっと様々な人を巻き込み、よりギリシャ的な議論の場となれば、建築家はその意義を取り戻し、今の阻害された状況から少しは脱却できるのではないでしょうか。
山本至
みなさま、こんにちは。伊東建築塾の山本至です。
まだ建築塾自体は始動していないのですが、着々と準備は進んでおります。これからどのような活動が行われて行くのか、恐らくそれはやりながら様々な要素が付加され、様々な方向へ進歩していくものだと思います。本塾のスタッフとして、伊東さんが行われるこれからの講座が楽しみです。
伊東塾では実践的な建築の講義に加え、受講者と共に建築の原初的なあり方を探り出すという試みを行います。「建築の原初」とは何なのか。それは言語的な側面だけを捉えれば、原始時代に人々がすんでいた洞穴のようなものなのかもしれません。しかし、それが果たして現代社会における建築にどのように合致し、どのようにその重要性を獲得していくのか。それはなかなか簡単に答えの出るものではありません。今回の震災は人災だとたびたび耳にします。原発の問題だけを捉えると、そうかもしれませんが、仮に現在の文明がなかったとしても、被害の規模は変わらないどころかもっと酷くなっていたでしょう。
ヘーゲルがフランス革命について以下のような文を記しています。
『思想、正義の概念が忽ちにして優勢となり、旧来の不正義の足場はこれに対して何の抵抗をもなしえなかった。アナクサゴラスはかつてはじめてこういった、理性が支配すると、だが、思想が精神的な現実世界を支配せねばならなぬということを認めるように、人間がなったのはやっとこのごろである。(エンゲルス「空想より科学へ」より抜粋)』
ヘーゲルの進化論は今にして思えばひどく単純なのかもしれません。
しかし思想や論理が世界を構築していることは疑い用のない事実であり、当時から既にそれを明確に理解していたヘーゲルの見方には驚かされるものがあります。
原初を見据えるというのは単純に過去へ戻るのではなく、ヘーゲルの言う「思想から現実世界を構築する作業」の一つだと思います。ヘーゲルのように文明の歴史を一本の線で辿ってしまうことが間違いなのだとしたら、それこそ「原初」をヘーゲルがいう「このごろ」以前に戻ることとはき違えるのもまた間違いと言えるでしょう。
私達が「建築の原初」をいかに現代文明と併合させながら考えて行けるか、そこにこの塾の重要な意義があるような気がします。
これから私の感想や、伊東塾での活動の様子を随時ブログに綴っていきますので、ご笑覧いただければと思います。
山本至
今治市伊東豊雄建築ミュージアムプレイベント(2011/01/16開催)
今治市伊東豊雄建築ミュージアムプレイベントとして、大三島小学校の高学年を対象とした建築ワークショップが行われた。当初の予想を上回る数の子ども達が参加し、会場は熱気に包まれた。
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