3月4日、今治市の小学生を対象にしたワークショップが行われました。
参加した子どもは8人。各自に1人の大人がつき、2人1組で作業を進めていきます。ツアーから引き続き、伊東豊雄、末廣香織さん、曽我部昌史さん、太田浩史さんが講師を務めて下さいました。
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3月の3日、4日と2日間をかけて香川県と愛媛県にある主要な丹下健三の建築をまわるツアーを行いました。講師には伊東豊雄、Y-GSAの小嶋一浩さん、九州大学の末廣香織さん、東京大学の太田浩史さん、神奈川大学の曽我部さん、という豪華な顔ぶれがそろい、ツアーの参加者は建築家や建築学生、そして県や市の職員など、様々な方々が参加してくださいました。
最初に高松で集合した私たちは、バスに乗り込みさっそく香川県庁舎へと向かいました。庁舎では香川県庁の職員の方が案内をしてくださいました。当初はこの建築は大手の組織設計に頼もうとしていたらしいのですが、その時代に民主主義という新しい時代を担う思想を必要としていた当時の長が、新たな時代を象徴するという意味で近代建築家に依頼をすることに決めたそうです。やはりその当時、コルビジェを頂点とするような近代建築というのは、現代と違い、ある明確な思想形態を象徴するものであったそうです。もちろんコルビジェからはどちらかと言えば共産主義的な要素を見いだせることからも、その中にも様々なふれ幅はあるのですが。
そのときに候補にあがっていたのが、前川国男と丹下健三だったそうです。その当時、前川はその近辺ですでにいくつか仕事をしていたということもあり、広島平和記念公園などで新進気鋭の建築家としてデビューしていた丹下健三に依頼をすることになりました。
丹下は期待された通りの仕事をします。
当日は生憎改修中で、ピロティ空間が布で塞がれており、本来の姿のままではありませんでしたが、それでも当時の人がこの建築を見たときの驚きは容易く想像できます。梁が表まで飛び出しており、規則的に並ぶ梁の側面が、本来はかなりシンプルな形態の建築なはずなのに、その表装に驚くほどの鮮やかさを演出しています。建物の奥庭は平面プランで見るとウネウネとした有機的な配置をしており、それがとなりの建築の堅さと、柔らかな対称を描いている。コンクリートという素材だからこそ生まれる迫力に圧倒されます。
出だしから丹下建築の傑作を見た後、私たちは香川県立体育館に向かいました。これは代々木体育館の試作品のようにいわれることが多いらしいのですが、実際には着工した年は同じで、同時進行的に計画されていたことがわかります。正直に言うと代々木体育館ほどの美しさはなく、外観からは頭でっかちな、なんだか不格好な印象をうけます。
しかし内部空間の広がりがもつ開放感は、窓がほとんど無いにも関わらず人を屋外にいるような感覚にさせます。
巨大なワイヤーが1.2m間隔でぶらさがり屋根を支えている。その迫力ある空間の真ん中でバドミントンをしている少年達がいたのですが、そんな場所で広々とスポーツをするのは、さぞかし気持ちがよいものでしょう。
体育館を見終えた後バスの中でお弁当を食べながら坂出人工土地へと向かいました。本当を言うとせっかく香川県にいるのですから、うどんが食べたくてしょうがなかったのですが、時間の都合上それは叶いませんでした。
坂出は今回のツアーで唯一、丹下建築ではないものです。設計は大高正人。メタボリズムグループの一人ですが、黒川紀章や菊竹清訓等と比べるとだいぶ装飾的でない作品を造ります。その彼の代表作が坂出人工土地なのですが、これが良い意味でも悪い意味でも予想以上でした。まず規模があまりにもでかい。敷地の北側には巨大な階段状の住戸がならんでおり、そこだけが異質な雰囲気を醸し出します。なるべく同じような個体の連続にならないように、建物の高さに変化をつけたり、ずらして配置したり、ところによっては地面にゆるやかな傾斜が設けられていたりと、ある意味で現代の「森山邸」に通じるものが見いだせます。しかし全体としてはやはり味気のない印象しかうけない。特にそれまで丹下建築を見ていたこともあってか、ただの箱が列挙しているだけに見えてしまう。
個々の住民は家の前の公共空間を効果的に利用しており、自分の領域をそこまで押し広げるように植物を育てたり、彫刻をおいたりしていました。
以前スペインのバルセロナを訪れたときにリカルド・ボフィルという建築家の「Walden7」という作品を見たことがあります。これは低所得者向けの住宅で、現代でこそ価値が高騰してきたものの、当時から貧しい人ばかりが住んでいました。ところがこの作品は40年以上も前のものにも関わらず非常に手入れが行き届いており、奇麗です。多くの人が自分のパーソナルなものを公共廊下まで溢れ出させているのですが、公共空間が乱れることはなく、むしろそれによって活き活きとしている。
坂出人工土地は1967年の作品。それに対してWalden7は1970年です。見た目も、計画も全く異なる二つの作品ですが、集合住宅における公共空間の使われ方の共通点は今後の建築においてもヒントになることが多そうです。
1層部分は商店スペースです。そこはそこで情緒のある雰囲気で、ふらっと飲みに行きたくなるような様相なのですが、上に住宅群があることを忘れてしまえば、ただのアーケード商店街とも言えます。このように商業と集合住宅を一緒にするという計画は今では新しいものではなくなりましたが、完全に商と住を分断してしまっては、もはや一緒の建築の中に挿入する意味を失います。様々な機能がより複雑な関係で絡み合っている状態のほうが、相互に刺戟しあうように感じました。
私たちが次に訪れたのは愛媛信用金庫今治支店。この建築は屋上と3層目に広く設けられたバルコニー空間が印象的です。建築中程を側面からがっぽりと削り取るような手法は、軽やかさと居心地の良さを生み出すのではないでしょうか。
初日最後の建築は今治市公会堂です。外からみると、ギザギザのかたちをした建築です。内部空間の側面もやはりギザギザに折り込まれており、そのくぼみに音響や設備の機能が隠されています。
この2つの建築はどちらもそれぞれ魅力的な作品なのですが、どことなくこぢんまりとしたところがあり、それまで見てきた建築の迫力に比べると大人しいものがあります。
コールハースの言う巨大な物のほうが良いという理論にのっとるわけではありませんが、やはり規模の大きな建築というのはそれだけ人を惹き付ける力も持っているものなのでしょうか。
大変なハードスケジュールで、建築巡りを終えた後は旧コンピューターカレッジという会場で、伊東、小嶋、末廣、太田、曽我部さん達によるセミナーが行われました。個々人が現在被災地で行っている活動についてのプレゼンテーションをおこなった後に、鼎談を行いました。
小嶋さんによるアーキエイドの話や、曽我部さんによるみんなの家の話など、建築家が被災地で行える取り組みの重要性を強く感じました。
鼎談の中で伊東さんは建築の利用者と建築家のあいだのずれについて語ります。現在、建築家は経済に依拠しながら生きている。場所がどこであろうが、経済的に活性しており、資本が新たな開発を求めている土地に赴く。言ってみれば建築家は経済資本に奉仕しながら、そういった要因に寄生し続けているわけです。だから社会のためといくら建築家が口にしたところで信用されない。経済に支配されない環境での建築づくりが必要だと。
実際は経済に影響をうけているのは建築家だけではなく、ほとんど全ての職種、全ての人々がその傘下にいるわけです。しかしとりわけ建築家の依存症はひどいものがある。経済を否定する必要はありませんが、その原理だけで建築ができあがってしまっては、ろくな都市は生まれません。
伊東さん含め、鼎談の参加者はみな、そのことを自覚しながら建築をつくっているからこそ、このような場で自信を持ってプレゼンテーションすることができるのでしょう。
長いセミナーも終わりバスは大三島にある宿へと向かいました。宿舎は古い小学校を改修したものだそうで、僕は昭和を一年しか経験していませんが、なんだか年号がさかのぼってしまったような錯覚に陥りました。食事を終えても宴会場をつかって、みんな夜中まで建築について語り合っていました。
翌朝からは大三島の伊東豊雄建築を巡ります。宿のすぐ脇にある岩田健母と子のミュージアムにて伊東さんが設計コンセプトを説明してくれたあと、すぐにバスで今治市伊東豊雄建築ミュージアムまで移動しました。
シルバーハット、スティールハットにて、再び伊東さんによる解説がありました。スティールハット内部におかれている円形の椅子は座面が床すれすれで、ほとんど寝ながら作品を見るように設計されています。そこで横になりながら宙に舞っている様々な文字を見ていると、とても穏やかな心持ちになりました。
もし今治にお越しの際は、是非大三島、そして伊東ミュージアムまでお越し下さい。
長いツアーもここで終わりを迎えます。
最後にみんなで集合写真をとり解散しました。様々な活動、仕事、勉強をされている方々が一堂に集まり、同じ物を共有する。そこで生まれた議論が建築家だけでなく、多くの人にとってのヒントとなっていればこれほど幸いなことはありません。
ツアーに参加された方々、急ぎ足で疲れたとは思いますが、大変おつかれさまでした。おかげさまで非常に魅力的なツアーになったと思います。
来年度も同様のツアーを企画できたらよいなと思っておりますので、また機会があれば参加いただけると嬉しいです。
僕は一時期俳句にはまっていた時期があり、今でもたまに読みます。
最近たまたま本屋で手に取った高浜虚子の「俳句への道」という本を読んでいるのですが、この本の出だしの章におもしろいことが書いてあります。
俳句には季語というものがありそれを用いて四季折々の風景を描写するものだという認識が一般的ですが、何故風景を描写するのか、何故それなしでは俳句と呼べないか、という考察がなされているのです。
その理由として虚子はこう言います。
「風景を写すのに長い文章で写すことは退屈をするものであります。風景のみを書いた文章はどうも刺戟が少ないのであります。長い文章で風景のみを叙することは不適当であります。此処に十七字という極端に短い形の詩がありまして、それで風景を謳うことをします。」俳句への道 岩波文庫より抜粋
つまり長いと退屈になってしまう風景を端的に表すための詩、それが俳句だというわけです。それ以外のことは他の文学にまかせておけばいい。
だから虚子は、当時はやっていた思想俳句と呼ばれるたぐいの物、つまり個人の思想や感情を俳句の中に投影し、非常に主観的な立場で描かれた俳句をばっさりと切り捨てます。
「今日世間で評判されるものは主観の暴露されているものである。そうでないと一般にわからないのである。私は最もそれを忌む。なぜそのような人々は季語というものが付きまとうている俳句を選ぶのであろうか。」
虚子にとって俳句というのはどこまでも客観的に風景を描写するための手段にすぎないわけです。虚子いわく、客観描写を突き詰めれば、自ずと俳句の内側に個人の特殊性、つまりは主観的要素が組み込まれて行く。だから俳句においてまず行うべきは客観的な見地を磨くことである。
ところがそうは良いながらも、虚子はあまり季語を感じさせない句を詠んでいます。僕は彼の俳句で好きな作品がたくさんあるのですが、その一部を紹介すると
「人と蝶 美しくまた はかなけれ」
「虹を見て 思ひ思ひに 美しき」
「人生は 陳腐なるかな 走馬灯」
などがあげられます。
蝶や虹というのはもしかすると何かの季語にあたるのかもしれませんが、これらの句は純粋な風景描写にはとどまりません。
僕の一番好きな俳人である夏目漱石の俳句等には季語が一切登場しないものがあります。例えば漱石の句で僕が感銘を受けたのは、
「骸骨や 是も美人の なれの果て」
というものです。なんだか皮肉のような暗さの中に笑いがあるような、まるで彼の小説を17字に凝縮させたような素晴らしい句です。
また
「寝てくらす 人もありけり 夢の世に」
という句も素晴らしい。
世界をうがった目で見ている三四郎が、そのまんま言いそうなことです。たった17文字が小説を読んだときと同じ心持ちを読者にあたえるというのは信じがたいことです。
それまで小林一茶や蕪村など、もちろん美しい句を詠むのですが、やはり自然主義的というか風景描写をするということが俳句の第一義となっている人たちの俳句を読んでいると、急に漱石みたいな句に出くわしたときの衝撃は、それは強いものがあります。つまりメッセージや意味があまりにもダイレクトに伝わってくる。
虚子は嫌うかもしれませんが、そのような俳句の在り方は、それをただの風景描写ではない、さらなる次元へ高めたような気がします。
しかし虚子の言うように、客観的な作業を研磨した先にやっと主観が覗き見えてくるというのは、ある意味建築にも通じることのような気もします。建築家は家族構成にあわせ部屋数を決め、彼等のライフスタイルにあわせてプランをいじり、周辺環境の在り方にあわせて表装に手を加える。そういった細かな作業は一見、環境になびく作業の積み重ねのようでもあります。しかし、それだけで留まるのではなく、その総合体から建築家の思想というものがにじみ出ているような地点に到達してこそ、はじめて建築家は建築家たりえるのではないでしょうか。だからこそ、偉大な思想を語り続けるのも大事ですが、建築家として細かな作業の集積の果てにそこに辿り着くようでなければならない。
伊東さんは建築家養成講座で最初のころ、執拗に釜石の冬は寒い、だからいかに建築家が空想で屋外のにぎやかな風景を描いてみたところで、冬場に表で集まる人なんかいやしない、ということを執拗に言っていました。
それは一見当たり前のことですが、いざ現地にいかなければわからない。そんな単純な事実の前では、思想が敗れ去ってしまうわけです。
虚子は俳句がなぜ日本的な芸術であるかという理由を西洋と日本の住宅を比べて説明します。西洋の住宅は積石造がほとんどで、屋外の過酷な環境から室内を守るように閉鎖的に造られます。
しかし日本の場合はほとんどが木造の軸組で、しきりは障子くらい。また庭に面して縁側というものが設けられており、どこまでが外なのかがよくわからない。自然と住宅がより近いからこそ、風景描写をする俳句というものがより身近になったと言います。
それが俳句というものが日本から生成した理由かどうかはわかりませんが、虚子はここで建築の構成が文化的意味での人間生活を規定しているという指摘をしています。
伊東建築塾の活動、そして建築家養成講座が釜石で行っている活動は、建築家にとっては虚子の指摘するような客観的創作に近いものがあるかもしれません。しかしそれが出来上がった先に見えてくるものは、やがて個人個人の主観の集積となるでしょう。子ども建築塾の子ども達の作品がおもしろいのは、彼等が必ずしも主観的な創作だけを行っているからではありません。彼等なりに、そこにはなんらかしらの客観性が備わっており、それらが総括されて作品を形づくっている。どちらかに偏りすぎてはならないのです。
伊東建築塾で行っている活動も、漱石と虚子の俳句が混ざり合ったようなものであれば、より魅力的なものになっていくでしょう。
先週の土曜日、第6回目の子ども建築塾が行われました。
いよいよ作業は佳境にはいり、みんなでプレゼンボードを作っていきます。
この日は最初に伊東さんからプレゼンボードというものについて15分程度のレクチャーがありました。そもそもプレゼンテーションとは何なのか、それを一枚の紙にまとめるということは何なのか、それを理解するところからはじめなければなりません。
伊東さんは当日、岐阜県で勝ち得た図書館のコンペの為に制作したプレゼンボードを持参くださり、それに関して、本番さながらのプレゼンテーションを披露してくださいました。
その中で伊東さんが繰り返し強調していたことは、プレゼンテーションとは相手に伝える為の手段であり、とにかくわかりやすくあること。そしてこの提案がこんなに楽しいんだということを相手に伝えること。プレゼンボードに書いてある文章をただただ読み上げるのではなく、その瞬間に自分が伝えたいと思ったことを的確に伝えること。伊東さんはプレゼンテーションの練習は、プレゼンそのものをつまらなくさせるからしないと言います。
以上のアドバイスは非常に単純なことですが、同時にプレゼンテーションにおいてこれほどまでに重要なことはないだろうと思われる、大変的確なものです。
僕が個人的に聞いていて楽しかったり、惹き込まれたりするようなプレゼンテーションは、プレゼンターが聞き手と会話をしているかのような話し方をする場合がほとんどです。内容を伴ってこその伝達方法であるのはもっともですが、話し方一つ、プレゼンボードの彩り一つで同じ用な案でも印象が全く異なって見えてしまう。
どれだけ鮮やかな建築を造っても、どれだけ緻密な計画をしても、結局それを実現させるためには、その優れている点を自分の思想をよりどころとして相手に伝えるしかありません。伝え方が悪ければその良さを完全に享受することはできないでしょう。
恐らくこれは子ども達にとっては今まで以上に難しい課題だと思います。これくらいの年齢の子達は大勢の人前で話をするということ自体に慣れていません。当然照れを感じたり、しくじることへの恐怖を感じる。大学生ですら、緊張のあまり言葉を失ってしまうこともあるのですから。プレゼンテーションの巧さというのは滑舌の良さでも、話の巧さでもなく、伊東さんが述べたように、相手に伝えたいことが明確にあり、それを必死に伝えようと努力することに尽きるのだと思います。それは本来プレゼンターの中核にあり、その言葉によってその案は構築されていると言っても過言ではない。だからこそ余計な練習なんてしなくても、スラスラと言いたいことが出てくるはずなのです。
その後、ボランティアのお兄さんお姉さんと一緒にA1サイズのプレゼンボードの中にどのようなものを、どのように配置していくか、話し合いを行いました。模型写真をつかおうとしている子や、絵をたくさん配置しようとしている子、また配置方法も人それぞれで、段々状の建物を計画している子は写真の配置が段々状の建物の立面になるように計画したり、中心の模型写真から矢印をひいて広がりをもたせていたり。伊東さんが見せてくださった岐阜のプレゼンボードは内容物がグリッドにそっておらず、流れるように配置されていました。写真の大きさもまちまちで、一見まとまってはいないように見えるのですが、プレゼンテーションの流れにそっていたり、目立たせたいと思っている箇所を大きく使ったりと、実は細かく計画されています。線がカチッとひかれ、境目が明確なありきたりなボードとは違って、流動的なものだったからこそ、子ども達の自由な発想を殺さない見事な手本になっていたように思います。
何人かの子達は途中で伊東さんのボードを見に席をたって、確認しては、また席に戻るを繰り返していました。
下の写真は子ども達が自分で撮影したものです。プレゼンボードに使いたい写真を、自分たちでアングルを決めて撮影しました。どうすれば迫力がでるのか、どんな構図がかっこいいのかをみんな思案しているようでした。
前期は模型を造るというところが最終到達点でしたが、後期は敷地の規定された土地での模型作りに加え、スケッチ、そしてプレゼンボードの制作、発表と非常に要求が厳しくなっています。それでも恐らく皆さんが思っている以上に子ども達は積極的にそして見事に一つ一つの課題をこなしています。
今期の最後で、なんらかしらのかたちで皆様に子ども達の成果を発表できる機会があればと思っております。
是非楽しみにしていてください。
2月4日土曜日、約1ヶ月ぶりの子ども建築塾が行われました。
この日は休みの間にみんながそれぞれにテーマにあわせて作ってきた1/100の模型のお披露目です。休みの間にみんな一生懸命考えてきた模型は、前期からさらに飛躍して、一人一人の個性や特徴が表れていました。
模型の作り方が前期に比べてみんな自由になっていった一方、敷地の形や大きさが明確に決められていたがために、その制約に拘束されてしまった子もいたようでした。
特に目立ったのは、敷地の形にあわせて建物の形態を決めているというパターン。敷地とは、土地の所有者の領土を規定するものにすぎず、それによって建築が規定されるというのは、都市そのものの面白さを半減してしまうものです。土地という概念をより明確にし、それについて学ぶことは確かに必要ですが、そこからさらに一歩進んだ建築を提案してもらいたかったというのが正直なところです。
敷地と建物の平面を同形にするというのは、ある意味で土地のコンテクストを読み解いているともいえます。しかしそれは、その建築が周囲にとってどのような意味をなすかということに自覚的になっている場合にのみ、成立します。
そこでこの日は1/500サイズの模型を新たに制作し、それを敷地模型の上に並べることによって、他の子達と自分の建物との関係性について考えてみるという試みを行いました。
すでに作ってきた1/100の模型を参考に、1/500へと縮尺をおとしていきます。この模型の縮小化、つまりは単純化というプロセスは非常におもしろく、ある意味ではその建物のダイアグラムを制作しているとも言えます。1/500ということは、だいたいの子がわずか4cm四方の範囲の内側に模型をつくることになります。それだけ作り込める規模は小さくなるわけですから、その建物の形態的なシンボルがよりあらわになるわけです。それを自覚してかどうかはわかりませんが、みんな自分の建物の形態的な特徴をよく把握しているようでした。
途中で伊東さんと太田さんが子ども達の模型や提案について重要なことを言っていました。それはもっと機能について考えること、そして周辺環境について考えること。建築をつくるということは、やっぱり多くの人たちにとって、まだまだ形態を作ることにすぎません。しかし、本来はその内側で何が行われるかという機能的側面を計画するのも、その周辺環境を建築によって変革させるのも、全て建築家の役目です。今回1/500模型をつくって、他の子達の建物と自分の建物が意外に近いことや、それぞれがゆるやかに関係し合っていることに気がついて、伊東さん太田さんの言葉にもさらなる深みがましたのではないでしょうか。
来週からはいよいよプレゼンボード作りに取りかかります。
文章をあつかって、自分の案を説明したり、その案をより魅力的に他人に伝達するために、いろいろなことを考えていかなければいけません。そうなってくると必然的に形のことだけではすまなくなります。そのとき、彼等がどのように自分達の提案を説明するのか、今から楽しみです。
ブログをご覧くださっている皆様、遅れましたがあけましておめでとうございます。伊東建築塾の活動に興味を持っていただき誠にありがとうございます。
伊東建築塾が始動してから、9ヶ月近くがたちました。去年は拙いことも多々あったとは思いますが、今年はよりいっそうの飛躍を目指して参りますので、暖かく見守っていただければ幸いです。
最近は子ども建築塾の活動に終われ、養成講座に関して執筆する時間があまりなかったのですが、年もあけ、養成講座もかなりの進展を見せています。
建築家養成講座では、岩手県釜石市に新たな「みんなの家」を設計する計画を進めています。震災から早くも9ヶ月経ち、奇しくも伊東建築塾の進展と震災復興とはシンクロしています。釜石市に限らず、どの被災地もまともな復興はまだ到底実現できてはいません。仮設住宅、避難所で生活している人は当然のことながらまだ沢山います。
そんな人々に対して今私たちにできることはなんなのか。
それを養成講座という場を介してみんなで議論し合った結果が、少しずつ形に反映されはじめようとしています。
養成講座では、学生達みんなで一棟の「みんなの家」を提案することになりました。建物の機能を既存の職種や要素で規定したくはないのですが、表向きには「みんなのインターネットカフェ」を作ることが決まりました。しかしそれは、いわゆる現代都市に蔓延る個室型のネットカフェではなく、いろいろな交流や行為が交錯する場としてのネットカフェである必要があります。
建物を建てることは、そう容易ではなく、そこに到達するまでには様々な障壁を通過していかねばなりません。例えばお金のこと、誰がお金を出し、それをどう集めるのか、例えば機能のこと、そこで何をし、そのための維持費はどうするのか、などなど。そうした諸々の要因を話し合いながら設計がなされます。
形としても、なるべく容易でローコストに、しかし震災のことを考えるとある程度の耐久性が欲しい。ただそれを追求するがために、従来の仮設住宅のような、利用者の感覚を高ぶらせるような味わいの一切無い、無個性なものになるのも避けなければならない。そこで塾生の吉岡さんの提案で、RCの壁を2枚向かい合わせに建て、そこを様々な工夫によりインフィルしていくことになりました。2枚の壁にかけられる屋根や、内部空間を生み出すためのもう2枚の壁の素材をどうするかなどは現在議論中です。
このように、困っている人々のために何かをしたい、そしてそのための建築を生み出したいという衝動は、建築家が建築家であるための最も純粋な動機である気がします。というのも、そもそも住宅が自然発生的に生産されては壊されて行く現在、あえて個人の建築家として生計をたてていこうという背景には、現在の社会構造を変革してやろうという意気込みがないはずがないのです。(現実には残念ながらそうでない人も沢山いるようですが。)それはすなわち、現在の社会に不満を持ち、それを変革する、つまりはそこから迫害されている人を救済する道標ともなりえるわけです。
建築家は宗教祖ではないし、権力者でもありません。そのことに自覚的になりすぎた建築家は、他者を変革することに怯えています。
しかし他者を変革させること、それは服従させることとは本質的に違います。
「みんなの家」が進展を見せて行くにつれ、塾生達にもそんな意識が増したように、端から見ていると感じます。
この日は麻布十番に子ども達が自分で選んだ敷地上にどんな建物を建てるか、計画をたてました。
子ども達はそれぞれ、対象敷地の1/100スケールと1/200スケールの図面を手渡され、その上に自分のなんとなく思い描くプランを重ねていきます。前期までは敷地という拘束がなく、好きなように建築をそれ単体として設計するだけでしたが、今回は敷地という条件の中で設計することに苦心している子も多いようでした。
この日は久しぶりに神谷町スタジオでの授業を行いました。村松伸先生からの宿題である2つの絵を壁に張り出し、それぞれが5分程度で説明し、太田先生、村松先生からの講評をうけました。
先日の土曜日、子ども建築塾、後期1回目の授業がありました。
21人の子ども達が5グループにわかれ、それぞれに設定されたテーマに沿って街歩きに行きます。テーマはA.境内、B.崖・坂道、C.水・緑、D.路地・空地、E.商店街です。それぞれの班にはボランティアの中からグループリーダーと称して、グループを先導してくれる人がつきます。彼等が提案してくれたルートを子ども達と移動しながら、その途上で、「まち」というものを考えるきっかけになりそうな断片を探し出します。
私は「水・緑」がテーマであるCグループと共に街歩きに繰り出しました。グループリーダーの鈴木ますみさんが見事なルートを提案してくださり、非常に充実した街歩きとなりました。